母の遺した手描きの四谷の地図

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母の遺した手書きの四谷の地図

昨日は母の5回目の命日でした

2016年の7月27日、元気だった母はあっという間にこの世を去ってしまいました。

毎日1キロ泳いでいたという市民プールへ自転車で向かう途中、T字路の横断歩道上で右折してきた80歳の男性の運転する車に当たって転倒し頭部を強打。

救急車で病院に運ばれたもののそのまま息を引き取りました。

そんなことになるとは想像もしていなかった2016年の3月、母が遺してくれたのが手描きの四谷の地図でした。

四谷は父と母の新婚の地であり、私と弟が生まれた場所でもある、母にとっては思い出深い街。

形見となってしまった大切な地図、今でも手帳に入れて持ち歩いています。

きっかけは出張で来た市ヶ谷

2016年3月、東京の市ヶ谷でセミナーに参加するため神戸から出張で東京を訪れました。

セミナー終了後、帰りの飛行機まで時間があったので、市ヶ谷から四谷に歩いて、子供のころ住んでいたという「四谷三栄町」に行ってみることにしました。

両親は1959年に結婚して、当時の父の勤務先の宿舎だった四谷のアパートで暮らし始めました。

当時民間で初めての鉄筋コンクリートのアパートだったと聞いています。

私は1961年にここで生まれ、2年後弟も四谷の同じ病院で生まれました。

その後私が3歳くらいの時に父が独立してこのアパートを離れ、上野・湯島に引っ越すことになります。

特にその後父の事業が何回も倒産して波乱万丈の人生を送った母にとって、ここ四谷での生活は希望と悦びに満ちたものだったようです。

四谷三栄町散策 生まれた産婦人科は今も健在

私の四谷三栄町の頃の記憶は2つあります。

一つはアパートの前が砂利になっていて、そこで同じアパートに住んでいた同い年の「アン君」とシャベルで遊んだこと。

もう一つはアパートの近くに八百屋さんがあって、天井からお釣りを入れる竹籠がぶら下がっていたこと。

これは四谷の記憶であり、私の人生最古の記憶でもあります。

それ以来、ここ三栄町には来たことがないので、何が昔から残っているのかはわかりません。

その建物の古さから想像しながら歩くことにしました。

志乃多寿司 創業100年の老舗だそう。だったら60年前もありましたね。母に聞いてみることにします。

志乃多寿司さんはこちら: https://tabelog.com/tokyo/A1309/A130902/13092638/

 

生まれた産院が川添先生という名前だったのを思い出し、調べてみると今も存在しているようです。

行ってみることにしました。

ありました。四谷川添産婦人科。ここで生まれたんですね。なんだか嬉しくなりました。

四谷界隈を散策したこと、志乃多寿司のこと、川添産婦人科がまだあることなど、母にメールで報告しました。

すると数日後、母から封書が届きます。

その中にこの手描きの地図が入っていたのです。

地図に記載されたエピソードの数々

地図上のお店や目印には番号が付いていて、「色々思い出して下記のようだったと思います」とそれぞれコメントが記載されていました。

    1. 中華料理店 パパが好きでよく行ったお店
    2. 志乃多寿司 味が濃いめでおいなりさんとかんぴょう巻しかないお寿司屋さん。
    3. さつま揚げ店 店先で揚げてて美味しかった(姉が今でもよく話題にしてます)
    4. 管理人の家 お勝手の窓からいつも監視されてました。
    5. 洋服の仕立て屋さん 仕事をしているお姉さん達が、あなたとアン君の遊ぶのを写真に撮ったりしてたっけ。
    6. 八竹ふくさ寿司屋 薄焼き卵で味付けご飯を包んだお寿司、美味しかったなー。
    7. 錦松梅 高級ふりかけのお店
    8. 四谷花柳界荒木町 パパがお客さんの接待で通ってよく酔っ払って帰ってきました。
    9. 酒屋 お店にカウンターがあり夕方サラリーマンやおじさん達が立ち飲みをしていました。
    10. 歯医者 私が治療をしている時、あなたが椅子のネジを廻してガクンと倒れたら、先生に「子供の寝てる時に来て下さい」と言われました。
    11. ゴルフ練習場 会社から帰ると毎日通ってましたっけ
    12. 鯛焼きや 尻尾までアンコがいっぱいという有名な店

4月 志乃多寿司と八竹のふくさ寿司を持って新潟へ

母の地図には母の色々な思いがあふれていました。

ちょうどその年の4月、娘と新潟にお花見に行こうということになったので、四谷で母の地図にあった「志乃多寿司」と「八竹のふくさ寿司」を買って持っていくことにしました。

こちらが大正13年創業の八竹さん。

八竹さんはこちら:https://yotsuya-hachiku.co.jp

その時に母の地図を頼りにアパートのあったところにも行ってみることにしました。

すると何と!まだありました。

その後すぐ、このアパートは解体されたので、最後の最後のチャンスで見ることができました。奇跡です。

舗装されずに砂利だったこのあたりでアン君と遊んでいたのですね。

そしてアパートの入り口のこのお店が私の最古の記憶、八百屋さんの釣り銭カゴのあったところです。

その後娘と待ち合わせ、新潟へと向かいました。

両親と最初で最後のお花見となりました

桜の時期に新潟に行くことがなかったので、大人になってから両親とお花見などしたことがありませんでした。

まさか母がその7月に他界するとは想像もしていなかったので、これが両親とする最初で最後のお花見となりました。

助手席の父の案内で亀田方面の桜の名所をまわり、その後鳥屋野潟公園に移動。

鳥屋野潟公園はこちら:https://www.toyanogata-park.com

お弁当を持ってお花見です。

 

父の車椅子は公園の管理事務所で借りました。

志乃多寿司

八竹のふくさ寿司

桜の下で記念撮影

地図に書かれた母の言葉

別れの言葉も残せずに母は突然逝ってしまったと思っていましたが、この地図に書かれた手紙こそが遺書なのだと今気づきました。

先日は懐かしい四谷近辺の様子をレポートしてくれてありがとう。もう50年以上も前の事ですが、嬉しくて記憶をたどりながらパパと話をしました。私よりパパの方が記憶があいまいでした。新潟の母などもよく来てくれてました。新婚旅行に行っている間は、母や姉が三栄荘にいて東京見物をしていたようです。公ちゃんのお産の時は、母と妹であなたを見ててくれました。結婚3年目くらいでパパが独立。それからは私の生活も一変、忙しい人生の始まりでした。苦労もいっぱい 楽しい事もいっぱい今はよく出来た子供達、孫、お嫁さんがいて幸せです。1日でも長くパパが元気でいてくれるのが私の仕事と思っています。

母の手描きの地図から、懐かしいお寿司を持って新潟へ行き、両親と最初で最後のお花見をすることができたこと、今思えば本当に奇跡に導かれたとしか思えません。

あなたの子供で本当に幸せでした。ありがとう!

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