新潟市の歴史を学んだ後は、魚や片桐寅吉で海鮮丼!
旧小澤家住宅で新潟市の歴史を学ぶ!
今日は旧小澤家住宅でボランティアの集まりがありました。
その後半の時間で、新潟県立博物館の方から、
新潟市の歴史についてのお話がありました。
これがとっても興味深く、面白い!
新潟市の中心部「新潟町」の始まりから、
現在の街への移転、当時の街の様子など、
初めて知ることから、なんとなく知っていたのが理解できたことまで、
あっという間の1時間でした。
旧小澤家住宅はこちら:https://www.nchm.jp/ozawake/
信濃川と阿賀野川は河口で1つになっていた!
新潟には信濃川と阿賀野川という大きな河川が流れていますが、
その河口がかつて一緒だったことがあると初めて知りました。
その河口には新潟津、沼垂(ぬったり)湊、蒲原津の3つの湊があり、
三ケ津(さんかつ)と呼ばれていたのだとか。
この3つの湊のうち、歴史に一番最後に登場したのが新潟津なのだそうです。
近年、魚沼市にあるお寺所蔵の仏像の底部の墨書から、
その仏像が「蒲原郡平嶋郷新潟津不動院」の本尊として作られたことが発見されたとのこと。
その新しい発見もすごいですが、
その研究をしている方がいるということもすごいと思いました。
今も新潟市の西区に平島という地域があって、
そこのことかもしれないし、より広域なエリアを指していた可能性もあるとのことですが、
いずれにしても昔の新潟は今よりも西の方にあったことは確かと言えるようです。
新潟町は信濃川と阿賀野川の変遷とともに出来た町
新潟平野は大きな河川、信濃川と阿賀野川が運んだ土砂でできています。
この二つの大河川、それだけの土砂を運ぶだけの流量があるだけに
氾濫や蛇行を繰り返し、流れる流域も時と共に変わりました。
河口を同じくしていた信濃川と阿賀野川ですが、
やがて流れが変わり、阿賀野川は日本海に流れるように。
そのせいで信濃川の河口あたりには大量の土砂が堆積して土地ができ、
今よりも西の方にあったとされる新潟町が移転してきています。
新潟町は長岡藩の商業の拠点として発達し、
多くの北前船が集結する港町として栄えました。
長岡は城下町として発展し、
新潟町はその後幕府の直轄地・天領となるので新潟には城はありません。
再度、町まるごと移転して今の場所へ
その後の川の堆積は進み、
今までの町が港として使いにくくなってしまいます。
信濃川の河口には大きな砂州ができ、島のようになっていました。
この島状の砂州に、新潟町まるごと移転したのが明暦元年(1655)のこと。
お寺から何からまるごとです。
そして白山神社を先頭に、
川側から上大川前通、本町通、片原通(今の東堀通)、古町通、寺町通(今の西堀通)、
と今の形に町が整備されました。
川沿いの上大川前通や本町には旧小澤家住宅のような問屋や商店、
古町通には職人や旅籠、遊興など、
そして寺町通には寺院、と職業によって住む場所が決められていたといいます。
片原通と寺町通は川と並行して堀になっていました。
その3本の掘をつないで横に白山堀、新津屋堀、新堀、広小路堀、御祭堀が通っていて、
多くの船が行き来して荷物を運んでいたといいます。
みなとまちというと海沿いの街を想像しますが、
新潟の港は河口に近い川沿いにあり、街の中にも船が行き来するみなとまちだったのです。
想像するだけでもワクワクします。
知識欲を満たした後は、美味しい海鮮丼!
もっともっと面白い話がいっぱいあり、
充実の1時間でした。
昼食をご一緒してくれる人がいたので、
近くの魚や片桐寅吉へ。
前回カキフライを堪能したところです。
その話はこちら:みなとまち新潟の豪商だった⁈ 魚や片桐寅吉でカキフライランチ!
好きなのでどうしても今回もカキフライ…を頼みかけて、
やっぱり一番人気?の海鮮丼を食べてみることにしました。
こちらがその海鮮丼。
全てのお刺身が新鮮、しかもたっぷりで、
とっても美味しいです。
きんぴら、昆布煮、イカの天ぷらなどの
サイドディッシュもとっても美味しい。
大満足のランチでした。
魚や片桐寅吉さんはこちら:https://torakiti.sakana-bandai.com
まとめ
江戸後期からの新潟町で回船業で活躍した旧小澤家。
新潟の町屋の姿を今も見ることができる施設として公開されています。
そこでのボランティアガイドとして見習い中ですが、
その集まりの後半で、研修として新潟町の歴史のセミナーがありました。
その内容がとっても面白くて知識欲が大いに満たされました。
その後行った魚や片桐寅吉さんの海鮮丼がとっても美味しくて、
食欲も満たされ充実の半日でした。