えんでこ 中央区街歩きに参加してきました
えんでことは?
「えんでこ」とは、新潟弁で「歩いて行こう」という意味だそうです。
新潟市中央区の企画イベントで、
中央区のいろいろな場所をまち歩きの達人・新潟シティガイドの方が案内をしてくれます。
朝10時ごろ出発して、だいたい12時ごろまで、参加費はわずか500円です。
定員は各コース20名まで。
開催日の10日前までにメールか葉書で応募、希望者が多数の場合は抽選となります。
以前参加したことがあって、その時は萬代橋から沼垂方面を歩きました。
その時に、新潟の地形を見るためにディアシップ(新潟新聞本社ビル)の高層階から市内を眺める時間がありました。
遠くに見えた「鳥屋野潟」海抜の低い新潟市の治水の役割を一手に担っている、との説明を聞いて、今度ちゃんと勉強したいなー、と思っているところです。
自分では気づかなかったのですが、どうやら私は「治水」にとても興味があるようなのです。
そんな新たな事実を知ったり興味を持ったりすることができるのもこういうイベントに参加する楽しみです。
今回のコースは「西海岸公園・歴史と文学の散歩みちコース」です。
もう一つ、「関屋分水と旧競馬場跡地散策」コースにも申し込んだのですが、こちらは抽選で落選しました。
分水。これも治水ですね。
確か関屋分水も大河津分水も来年100周年を迎えるはず…。
ガイドさんの話を聞きたかったな…。またのチャンスを楽しみにすることにします。
今回の「西海岸公園・歴史と文学の散歩みちコース」は新潟護国神社の鳥居に9時30分から45分の間に集合です。
家から歩いて約30分、9時30分くらいに到着しました。
ここから出発して護国神社の敷地内の石碑や、戊辰戦争殉難者墓苑を巡ります。
護国神社は両親が健在だった頃初詣に来たことがあったり、
夏のお盆には盆踊りがあって、ここの盆踊りは「佐渡おけさ」が踊れる数少ない機会なので毎年のように来ています。
がいつも夜なので、明るい時間に境内に入るのは初めてでした。
まず神社の鳥居手前の道を右に進みます。
鳥居の手前、右に入ると萬代橋の父・八木朋直の胸像
米沢藩出身で明治2(1869)年以降、
越後府の官員→県の会計課長→第四国立銀行頭取(明治9年/1876〜)→新潟市長(明治32年/1899〜明治35年/1902)
までつとめた人物だそうです。
幼少の頃から算術の才が際立っていたといわれ、米沢藩士で和算家であった今井直方に師事して関流和算を極めたといいます。
文久3年(1863)に藩に出仕すると、和算の才を活かして会計方・勘定役として活躍しました。
経営危機に陥っていた第四国立銀行に入行し、2代目頭取に就任、経営危機を脱し、
その後も銀行経営のトップとして約20年間にわたり第四国立銀行の舵取りを担った、
って相当なキレものです。
八木朋直の功績で最も有名なのは初代萬代橋の建設です。
初代萬代橋は長さ782mと当時日本一の長さを誇る橋でした。
朋直は建設費全額を出資したそう!
まさに萬代橋の父ですね!
その胸像の奥の道を入っていきます。
鳥居の右の松林の中を行くと、芭蕉堂、坂口安吾の石碑が
するとすぐ右手に「芭蕉堂」と言う石室があります。
永久保存のために堂の中は全部コンクリート詰めにしてあって、
中に芭蕉の肖像画とプロフィールが銅の筒に入れてあるとか。
吉原芳仙と言う画家が私財を投じて建設し、新潟市に寄贈したそうです。
さらに進むと坂口安吾の「ふるさとは語ることなし」の巨大な石碑がありました。
尾崎士郎、壇一雄らが発起人となって昭和32年6月に建立したものだそうです。
石碑の横には尾崎士郎名で「坂口安吾が少年の日の夢をうづめたこの丘に彼を紀念するための碑を建てる
昭和三十二年春 発起人代表 尾崎士郎」とあります。
北原白秋の「すなやま」の歌碑
さらに進むと北原白秋の「うみはあらうみ むこうはさどよ」の「すなやま」の歌詞の碑が見えてきました。
「大正11年に新潟市での童謡音楽会に招待された白秋は、 子どもたちの歓迎を受けたのち夕刻、香 居浜に足をのばしたと言います。
暮れかかる日本海、 砂浜、 松林という新潟海岸の情景は、 九州に生まれ育った白秋に大きな感銘 を与え、 小田原に帰ったのちこれを詩にして新潟の子どもたちに贈ったものが「砂山」の詩である と言われています。」
「すなやま」には中山晋平と山田耕作がそれぞれ曲をつけているとのことですが、
私の小学校の校歌はまさに北原白秋と山田耕作のコンビによるものでした。
小学校の校歌とは思えない、歌い上げる系の高尚な校歌だったことを思い出します。
東軍、西軍ともを祀る戊辰戦争殉難者墓苑
さて護国神社本殿前に来ました。
ちょうど参道の右手の林の中を進んできた形になります。
ここから参道を戻って鳥居方面に戻ります。
この手水舎の右の駐車場がいつも盆踊りの会場になります。
この中心に櫓が立ちます。
去年はコロナの影響で盆踊り自体が中止でしたが、その前の年、2019年には本殿前の回廊が完成して、この回廊の中で佐渡おけさを踊りました。
鳥居方面に歩いて右側に戊辰戦争殉難者の墓苑があります。
東軍、西軍ともに埋葬されているそうです。
護国神社を後にさらに進むと会津八一や良寛の句碑が
さて鳥居に戻り、その前の道を横断し、西海岸公園を挟んで海を左手にさらに小道を進みます。
左手に会津八一の歌碑が現れます。
「みほとけの あごとひぢとに
あまでらの あさの
ひかりの ともしきろかも
中宮寺にて 秋艸道人」
奈良の小道にもたくさん会津八一の句碑があります。
毎年のお楽しみ秋の奈良旅行、今年も行けるでしょうか。
この日はいいお天気。
松林の中は風も涼しく快適です。
さらに進むと良寛詩碑が現れます。
「風定まりて花猶落ち
鳥啼きて山更に幽なり
観音妙智力 咄
釈良寛書
覚えておきたい名前「川村修就(ながたか)」 初代新潟奉行
しばし東屋で休憩したのち、近くの小高い丘の上に立つ「川村修就(ながたか)像」へ。
新潟港は長岡藩の領地だったそうですが、天保14年(1843年)に幕府が没収して天領としたとき、初代新潟奉行として任命されたとのこと。
9年間在任した間に、海防、砂防、消防、物価の安定など、庶民生活の向上に尽力したそうです。
砂防のための松の植林をすすめ、在任中に植えた松は3万本に上ったとか。
新潟の後は堺奉行、大阪町奉行、長崎奉行にも就任しています。
この像といい、白山公園の新潟県令・楠本正隆像といい、どちらも若くてイケメンで素敵です。
そういえば楠本正隆も長崎に縁がありました。
川村修就は明治維新後も以降も東京にとどまって余生を送り、明治11年(1878年)に84歳で没したそうです。
後年、川村家は家に残った史料を、江戸時代のものは新潟市歴史博物館に、
明治以降のものは江戸東京博物館に寄贈しているそうです。
どちらも訪ねてみたいと思いました。
再び会津八一の句碑があり、ドン山へ
そこから少し行くと、会津八一の別の句碑があります。
「みゆきつむ まつのはやしを
つたひきて まどに
さやけき やまがらのこえ」
さらに進むと「ドン山」が見えてきます。
その音からこの名前になったとか。
ここに移されたのは大正8年で、当初は大砲の砲先は市街地の方向に向けられていたらしいです。
近くに新しく建てられた中学校の勉強の支障になると、大正10年ごろ海の方向に向けられたとか。
六角形の白い番小屋は廃止後白山公園、その後大円寺公園に移転されたそうですが、戦争で消失。今ここにあるのはレプリカです。
この先の行形屋、旧斎藤家別邸、北方文化博物館新潟分館などは別な機会に詳しくご紹介したいからです。
いやー、こんなところにこんなに色々見所があったなんて、新たな発見でした。
この街歩きでいただいたとても詳細な資料です。
これを見ながら自分で歩いてみるのも楽しそうです。