会津八一、終焉の地!北方文化博物館別館(新潟市)
会津八一記念館に行って思い出しました!
新潟市の中心、萬代橋の近くに建つ新潟日報社の本社ビル・メディアシップの5階にある
会津八一記念館で「八一を知る 八一がわかる」展が開催中です。
会津八一記念館はこちら:https://aizuyaichi.or.jp
会津八一を知るための初級編ということで行ってきたのですが、
その話はこちら:会津八一を知って、わかるための入門編へ
それで思い出したのですが、
4月に旧斎藤家別邸に行った帰りに、会津八一が晩年を過ごした家に寄っていました。
そこは今、「北方博物館別館」として開放されています。
北方文化博物館別館はこちら:https://hoppou-bunka.com/niigatabranch/index.html
この新潟分館は、
出雲崎町尼瀬の西山油田の掘削によって巨万の富を得た、
長岡の清水常作氏が明治28年(1895年)に別宅として建設したものです。
清水常作氏の逝去後、明治末期に七代伊藤文吉が新潟別邸として取得しました。
伊藤家とは、
江戸中期に阿賀野川のほとりの小さな集落、沢海(そうみ)で農業で身を興し、
代を重ねて豪農の道を歩み、越後随一の大地主となった大豪農です。
北方文化博物館本館はこちら:https://hoppou-bunka.com
本館の方は、その沢海(新潟市江南区)にあって、立派な藤棚で有名です。
北方文化博物館本館の藤の花はこちら:間に合った!北方文化博物館の藤の花ライトアップ!
会津八一が晩年を過ごした終焉の地!
曾津八一は明治14年に新潟古町の老舗料亭「會津屋」で生まれ、
新潟尋常中学校(現新潟県立新潟高等学校)から東京専門学校(早稲田大学の前身校)へ入学。
坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講し、
明治39年に早稲田大学の英文科を卒業しています。
卒業後は新潟に戻り高校教員となりますが、早稲田中学校の教員として再び上京。
15年後に早稲田大教授となり、
仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(昭和8年)で文学博士に。
その後芸術学専攻科の主任教授に就任します。
昭和20年、戦災にあった八一は新潟県旧中条町に疎開。
坂口献吉氏(坂口安吾の長兄・元新潟放送初代社長)に請われ、
昭和21年5月『夕刊ニイガタ』の社長に就任しています。
新潟市内での住居を坂口氏に依頼するも、当時は戦後の混乱期で住宅事情も悪く、
同氏は東奔西走して伊藤文吉の持ち家である新潟別邸に白羽の矢を立てたのだそうです。
逝去するまでの10年間、ここで晩年を過ごしました。
この建物は、明治期の書院造の日本家屋で、回遊式日本庭園を望む開放的なレイアウトになっています。
会津八一は後から建築された洋館で生活していたそうで、
今はその洋館に八一の作品や資料が展示されています。
「無」
八一は老子の『道徳経』を好んだそうで、「無」は老子の哲学の原理である無為自然(むいじねん)からきているそう。
「かすみたつ」
庭園にある歌碑の原稿だそう。
かすみ たつ はま の まさご を ふみ さく み
かゆき かくゆき おもひ ぞ わ が する
「骨董三昧」
八一はたびたび北方文化博物館本館を訪問し、
閑静な環境での思索の時間と伊藤家の古美術コレクションを堪能したのだそう。
「番董三昧」は伊藤家の巌大なコレクションのことのようです。
新潟シティループバスが便利!
旧齋藤家別邸と北方文化博物館別館は歩いて1、2分のところにあります。
北方文化博物館別館前には新潟シティループバスのバス停があります。
日中の時間帯に1時間に3本程度走っているので、
このバスを利用するのが便利です。
まとめ
会津八一記念館へ行って、
以前旧齋藤家別邸に行った帰りに、
八一が晩年を過ごした邸宅に寄ったことを思い出しました。
現在は北方文化博物館分館として開放されています。
旧齋藤家別邸から徒歩1、2分で行くことができ、
真ん前に新潟シティループバスのバス停があるのでループバス利用が便利です。