復習兼ねて、北前船の時代館・旧小澤家住宅へ!
みなとまち新潟で栄えた商人の店舗兼住宅
新潟市の上大川前通12番町にある旧小澤家住宅に行ってきました。
旧小澤家住宅はこちら:https://www.nchm.jp/ozawake/
まだ寒い頃に市報で募集していた、
旧小澤家住宅のボランティアガイドに応募させていただいて勉強。
4月になんとか見きわめ試験?をパスすることが出来たのですが、
その後パソコンの教室に通い出したり、
旧齋藤家別邸のボランティアガイドにも応募してしまったり、
旧齋藤家別邸の話はこちら:新潟は名庭もいっぱい!旧齋藤家別邸は贅を尽くした1300坪の別荘!
G7ボランティアに向けての勉強もしなくてはならなかったり、
で、すっかり時間が空いてしまいました。
5月にはボランティアが集まっての総会があり、
研修講演として聞かせていただいた新潟市の歴史がとても面白く
その話はこちら:新潟市の歴史を学んだ後は、魚や片桐寅吉で海鮮丼!
知れば知るほど、もっと知りたいことが出てくる、
でもそれがとても面白い新潟の歴史の沼にハマっています。
見きわめのための勉強してから随分と時間が空いてしまったので、
復讐を兼ねて訪問してきました。
旧小澤家住宅とは
在宿(ざいやど)という商いでスタート
旧小澤家住宅とは、江戸時代の後期から新潟町で商売をしていた
小澤家の店舗兼住宅で、その土地と建物が
平成14年(2002)に小澤家から新潟市へ寄贈され、
修復、整備を経て平成23年(2011)に開館しました。
小澤家の先祖はもともとは加賀国、今の石川県加賀市大聖寺からやってきました。
本家は鳥屋野潟近くの長潟(ながた)の地主で、
19世紀の初め頃に分家して新潟町にやってきました。
当主は、江戸時代後期には「小澤屋七助」と名乗り、
近隣の農民に宿を提供し、米を売る仲立ちをする
「在宿(ざいやど)」という商売をしていたそうです。
幕末から明治にかけて、米穀取引を中心に商売の規模を拡大していきました。
回船業、そして廻船問屋へ
明治に入ると5代目七助は「七三郎」と改名して回船業を営みます。
明治10年ごろには小澤家は観得丸や幸運丸という名の回船を持って商売をしていました。
回船、いわゆる北前船です。
北前船は、さまざまな港に寄港して、売れる商品を安く買って船に積み、
売れる商品を高く売って儲ける、という買い積みという商いです。
小澤家の明治9年の記録によると、
2月に新潟で米や酒を買い、
3月に小樽で売っています。
5月に増毛(北海道)でニシンの〆粕(しめかす=肥料になる0を仕入れ、
7月に下関でその〆粕を売っています。
その下関で塩やそら豆を仕入れ、
8月に新潟で売っています。
11月には小樽に行き、鮭の塩引を仕入れています。
このように新潟を拠点に、北海道と瀬戸内、大阪を行き来して富を築いていきました。
そして明治20年代に、初代七三郎は分家が営業していた廻船問屋業を引き継ぎました。
廻船問屋とは?
廻船問屋とは、北前船などの回船の船頭を泊め、
資金を融通し、卸問屋との仲立ちをして船頭の商売を助け、
手数料や保管料を得る商いの形態です。
北前船の船頭はそれだけの力を持つ存在だったのです。
江戸時代のにいがた湊では、越後や佐渡以外に籍のある回船は、
こうした廻船問屋の世話になっていました。
このような廻船問屋は大問屋と呼ばれました。
これに対し、佐渡とにいがたを往来したり、
信濃川や阿賀野川で在来の村々とを行き来する小さな回船が世話になった問屋は
小卸問屋と呼ばれていました。
大問屋は、今の旧小澤家住宅のある上大川前通や本町に並んでいました。
当時は株仲間制度があったため、
この大問屋の数は48軒と定められていました。
明治以降、この廻船問屋の特権や制限が撤廃され、
多くの問屋が参入していきます。
海を航海して売買する回船には常にリスクが伴ったため、
廻船問屋の方が安定して儲けを得ることができたからです。
こうして財を成した初代七三郎は、
明治29年には新潟商業会議所設立時の発起人になったり、
区会議員や第一回市会議員に当選するなど、
地元の実力者として活躍をしていきます。
2代目七三郎以降の小澤家
明治29年には2代目七三郎が家業を承継しました。
2代目七三郎は明治25年に
新潟3大財閥の1つである斎藤喜十郎氏の娘・タケと結婚します。
斎藤家の別邸はこちら:https://saitouke.jp
同年には新潟運送株式会社を設立し、
翌年には港湾の荷役に従事する新潟曳船株式会社や
新潟艀(はしけ)株式会社の設立にも参加したり、
明治34年には廻船問屋倉庫株式会社の社長に就任したり、
そのほかにも原油の輸送にあたったり、
市議会、市参事会員など要職を歴任。
明治以降も自家で経営する小澤商店で
石油の小売やビールの販売なども手掛けていきます。
2代目七三郎の二人の男子は若くして亡くなっていたため、
大正7年に結婚した、長女のテイの五泉の田代家からの婿・國治が当主となります。
國治は斎藤家系の企業、新潟硫酸という会社に入社、
常務取締役を経て大正25年には社長に就任。
以後、司会議員、市参事会員、商工会議所副会頭を経て、
昭和21年には衆議委員議員となります。
その後小澤家の当主は、國治の長女・彩子の婿である小澤辰男氏に受けつがれます。
辰男氏は東大卒業後、内務省、厚生省などに勤務していました。
昭和35年の衆議院議員初当選後、13回もの当選を果たし、
建設大臣、厚生大臣、環境庁長官などを歴任しました。
平成12年には引退し、平成14年(2002)にこの住宅、土地、建物を新潟市へ寄贈しました。
平成18年には市の文化財に指定され、
その後修復期間を経て、平成23年(2011)に開館しています。
まとめ
新潟市の上大川前通12番町にある旧小澤家住宅に行ってきました。
旧小澤家住宅とは、江戸時代の後期から新潟町で商売をしていた小澤家の店舗兼住宅です。
平成14年(2002)に小澤家から新潟市へ寄贈され、
修復、整備を経て平成23年(2011)に開館しました。
旧小澤家住宅のある上大川通はかつて北前船と商いをする廻船問屋が立ち並ぶ
みなとまち新潟を代表する活気あふれるエリア。
北前船あふれるみなとまちに想いを馳せることができる施設です。
歴史の話に終始してしまったので、
お部屋やお庭など、またの機会にご紹介したいと思います。