正岡子規の名前の由来が切なすぎる!ホトトギス!
子規の子ども時代!幼名は升(のぼる)!
子規のエピソードが豊富すぎて、昨日からの続きです。
子規記念博物館前編はこちら:「人間・正岡子規」の生涯、その魅力に引き込まれる素晴らしい展示!
おじさんを頼って東京に行きたい!
皆から「のぼさん」と親しみを込めて呼ばれた子ども時代の子規。
中学校時代には東京に出て政治家になりたいと思っていました。
周りの友達もどんどん東京に出て行きます。
子規には父親がいなかったので、東京にいるおじさんの加藤拓川(たくせん)の許しを貰和なければなりません。
何度もお願いの手紙を出して東京で勉強させてもらうよう依頼したと言います。
そしてとうとう明治16年の6月におじさんから返事がきます。
おじさんの加藤拓川はこの時フランスに留学する直前でした。
フランスへの出発前に子規を東京に呼ぼうとして手紙には「大イソギ」と書かれています。
おじさん・加藤拓川がすごい人だった
この加藤拓川というおじさんが調べたらすごい人でした。
1859年に漢学者の三男として松山に生まれます。
11歳で藩校の明教館に入学し、後に日本騎兵の父と言われる秋山好古(よしふる)と出会います。
秋山好古、坂の上の雲のドラマでの阿部寛です。
それ以降好古とは生涯の友となります。
拓川は明教館を卒業後17歳で上京、司法商法学校に入学。
ここで後に首相となる原敬と出会い、生涯の盟友となります。
しかし原敬らと法学校に抗議運動を起こした結果、放校処分となってしまいます。
その後、中江兆民の仏学塾に入り、フランスに留学することになります。
原敬がフランス公使館の書記官となると、パリの法科大学に留学していた拓川を外交官に推薦。
拓川はフランス公使館勤務として外交官デビューをし、その後華々しい外交官としての人生を送ることになります。
ベルギー公使館を訪れて後の首相となる西園寺公望と出会い、公私共に親交を深めます。
西園寺と諸外国を渡って条約改正などに携わり、外交官としての道を駆け上っていきました。
一度50歳で外交官を退くのですが、原敬が首相になると特命全権大使に命じて外交官として復帰させました。
経歴も凄いですが、いつも驚くのはその出会う人のメカニズムの凄さです。
秋山好古、原敬、西園寺公望などなど、お互いに無名の時代に出会っていく、何か新たな時代を作っていくようなメカニズムです。
拓川のことを知って、すっかり子規からから外れてしまいました。
いざ東京へ!なんと2日後に出発、5日間の旅!
拓川から「大イソギ」の手紙をもらった子規は大喜びで中学校を退学します。
そしてなんと2日後に東京へと出発します。
当時は松山から横浜までは船で4日かかったそうです。
横浜からは開通したばかりの汽車で東京まで行きます。
学生時代の子規、漱石と野球と出会う!
子規は東京大学予備門や帝国大学文化大学(今の東京大学)で学びます。
寄席好きがきっかけで、同じ寄席好きの同級生・夏目漱石と話をするようになります。
ある時、子規が書いた文章を読んで漱石は驚き、自分も書いてみようと書いた文章を子規に見せると子規もまた驚いたのだとか。
こうして2人はお互いに尊敬し合う親友になったそうです。
ここでも出会いのメカニズムが働いていますね。
ベースボールに夢中!
その頃アメリカから日本に伝わったベースボールに子規はすっかり夢中になります。
ベースボールの俳句や短歌も沢山作ったと言います。
後に新聞記者となるのですが、新聞でベースボールのルールを紹介し、試合で使う言葉を訳しています。
そんなベースボールの発展に多大な貢献をした子規は数々の野球選手に混じって、野球の殿堂入りをしています。
ペンネーム「子規」の秘密!
子規は21歳の時、突然喀血しました。
そしてその翌年ももっと沢山の喀血をします。肺結核でした。
子規がこのペンネームを使い出したのはこの頃からです。
「子規」は「ホトトギス」とも読みます。
ホトトギスは口の中がとても赤く、鳴いていると家を吐いているように見えるのだそうです。
子規はホトトギスと血を吐いてしまった自分を重ね合わせて、このペンネームを使うようになりました。
また本名の常規の一文字と同じだったということもあります。
子規の名にそんな意味があったとは!
90ものペンネームを持っていた!
子規はなんと90ものペンネームを持っていたそうです。
常規凡夫、真棹家、獺祭書屋主人、秋の幽霊、竹ノ里人、面読斎などなど。
その中でも面白いのはベースボールに夢中になっていた頃のペンネーム・野球。
のぼーると読むのだそうです。
竹ノ里人は短歌を読む時のものなど、使い道によって変えていたのだそう。
俳句に熱中!研究熱心な子規!
子規が俳句に興味を持ったのは18歳の頃だそうです。
たまたま借りた俳句の本を読んで、その面白さに惹かれ自分でも作るようになったとか。
俳句を作るだけでなく、松尾芭蕉など昔の人が作った俳句の分類にも力を入れました。
俳句を季語や俳人ごとに分ける、気の遠くなるような作業を手作業で整理していったそうです。
つづく
まとめ
子規の人生には面白いエピソードがあり過ぎて、また続きになってしまいました。
それにしても子規の由来が鳴くと口が赤いホトトギスで、それを自分と重ね合わせたものだったとは。
90もあるペンネームにも驚きとユーモアに感心するばかりです。