お堀に囲まれた素敵な立地!鳥取県立博物館へ
わらべ館から鳥取城址目指して歩く
鳥取の市街地散策、何の予備知識もなく寄った「わらべ館」で思いがけず
1階で童謡・唱歌、2&3階でおもちゃのミュージアムを楽しみました。
調べたら鳥取には51のMuseumネットワークがあるそうです。
鳥取には51のMUSEUMがあります!:https://www.pref.tottori.lg.jp/item/1072231.htm#itemid1072231
わらべ館を出て、さらにお城方面に歩きます。
歩いてきた智頭街道は裁判所に突き当たります。
突き当たりを左折して歩いていくと、鳥取城址の看板のところを右折して
真っ直ぐ進むと
お堀に突き当たりました。
県立博物館があるということなので、お堀に沿って左に歩きます。
派手さはありませんが、とても落ち着いて静かな素敵な雰囲気の通りでした。
お堀に沿っていくと左のお城方面にお堀を越える橋があって、
そこに岡野貞一氏の「ふるさと」の碑がありました。
先程のわらべ館で地元の音楽家として紹介されていた岡野貞一氏です。
橋の先の道はずっとお城の方に続いていて、年輪を感じさせる桜並木になっています。
鳥取城址は鳥取を代表する桜の名所だそうで、日本さくら名所100選にも選ばれているとか。
豊臣秀吉の兵糧攻めで有名な鳥取城は久松公園として整備されていて、天守閣や二の丸跡が残っています。
お堀端を含めた公園内にはソメイヨシノを中心に約240本の桜があるそうで、満開期には屋台やボンボリが設置され、とても賑わうとか。
お城に向かって歩くと途中左側に鳥取県立博物館がありました。
地元愛溢れる鳥取県立博物館で鳥取を知る!
ランプも石垣も桜も、とっても素敵な立地に鳥取県立博物館がありました。
今日は何を発見できるのかワクワクしながら中に入ります。
写真撮影も禁止のマークがなければOKということです。
鳥取県立博物館は大きく分けて1階に「自然展示室」と「歴史・民族展示室」が、
2階に企画展などを開催する「美術展示室」があります。
この日はちょうど次の企画展「小早川秋聲(しゅうせい)」展(2月11日〜)の直前で展示はありませんでした。
小早川秋聲(しゅうせい)」展は昨年夏に京都文化博物館、昨年の秋、東京ステーションギャラリーで開催された同展の巡回です。
鳥取県に縁の深い日本画家で、近年、従軍画家としての画業が注目を集めているそうです。
自然展示室にはオオサンショウウオも!
1階の自然展示室にはこのような子供が楽しめる仕組みもあって
鳥取県の大地の成り立ちから、
鳥取砂丘や大山の生き物、
大きな杉の年輪や
ブナの木、
そしてなんと本物のオオサンショウウオも展示されています。
世界最大級のオオサンショウウオの標本もありました。
オオサンショウウオは学名:アンドリアス・ジャポニクスというのですね。
これは子供がいたら楽しそうです。
歴史・民族展示室で知る!鳥取藩32万石は全国12位!
ここからは歴史・民族展示室になります。
この展示室では、旧石器時代から江戸時代までの鳥取の歴史や人々の暮らしの様子と、
今も行われている祭りや伝統行事などが紹介されています。
歌人が収めた国?
全く鳥取の歴史を知らなくて申し訳ないのですが、この年表を見ていて、へー!と思ったのは
710年の平城京遷都の後、716年に伯耆国(ほうきのくに)守になっているのが山上憶良、
758年に因幡国(いなばのくに)守になっているのが大伴家持、
855年に因幡国守になっているのが在原行平(在原業平の兄)…とか人で有名な人が多いこと!
歌だけ詠んでいるのかと思ったらお仕事もしていたのですね。(失礼)
その辺のことを知りたいと、なんかとても興味が湧いてきました。
子持ち勾玉
重要文化財の子持ち勾玉も展示されていました。
土師器と須恵器
この土師器と須恵器の展示は違いが分かりやすくていいですね。
文章だけだとなかなか違いが分かりにくい。
山陰型鴟尾
こちらは山陰型鴟尾のレプリカですが、鴟尾の形に山陰型というのがあるのを初めて知りました。
大山寺と三仏寺
もしまた鳥取に行く機会があったら、この2つのお寺は絶対行かねば!と思いました。
波瀾万丈・鳥取の歴史!鳥取城攻めから一領主支配まで
第1次鳥取城攻め
羽柴秀吉は織田信長から中国地方攻略を命じられ、1580 (天正8)年9月因幡に出兵します。
鳥取城主・山名氏豊国を降伏させ、因幡を平定しますが、秀吉が播磨に帰ると、山名の家臣たちは豊国を追放し、毛利方に城将の派遣を求めます。
対抗する毛利氏
毛利氏の山陰攻略を担当した吉川元春の伯耆・ 因幡の経営は、東伯耆・羽衣石(うえし)城主南条元統の離反や秀吉の因幡進攻によって揺らいでいた。
元春は、鳥取城を毛利方として守るため、 一族の吉川経家を城将として派遣し、 織田方に対抗した。
天下人と因幡・伯耆
鳥取城の落城後、稲葉は戦功のあった武将たちに分与されます。
伯耆は毛利氏との領土交渉の末、東伯耆の3軍が秀吉側の領有となります。
豊臣政権下では鳥取城主・宮部氏が因幡の御前帳(検地帳)を作成し、羽衣石(うえし)城主・南条氏が伯耆を担当しました。
朝鮮出兵では亀井氏や吉川氏が武功を立てました。
この間、宮部氏や亀井氏は銀山を開き秀吉へ納めました。
関ヶ原以後、32万石の因伯合わせた初の一国領主支配へ!
関ヶ原の戦後は、徳川氏の大名が新たに配置され、領国運営につきます。
このうち亀井茲矩(かめいこれのり)は領内の開発に手腕を発揮し、千代川西岸に大井手用水を設けるなど、今に残る産業基盤を築きました。
また中国地方の大名として唯一朱印船貿易を行っています。
元和3年(1617年)には、姫路城主・池田光政が因幡と伯耆を合わせた32万石の鳥取城主として転封。
因伯(いんはく)は大山領3000石を除いて初めて一領主が支配する国となりました。
鳥取藩32万石は全国12位の大国!
石はお米の容積を示す単位で、 鳥取藩内で32万石のお米がとれることを意味します。
ただし、これは表高という幕府が認めた表向きの石高で、 実際の収入高とは相違したようです。
なんと驚くことに鳥取藩の石高は全国12位!
加賀百万石はさすがですが、水戸徳川家の35万石に次いで大きく、
彦根城の井伊家30万石より大きいとは驚きです。
お城が残っていないのが惜しまれます。
まとめ
鳥取県立博物館は鳥取城址の敷地内のとても素敵な立地にあって、
鳥取の自然、歴史、民俗が学べる博物館です。
奈良時代〜平安時代には多くの歌人が国を収めていたり、
江戸時代には32万石の全国12位の大きさだったり、
新しい発見がたくさんありました。