「子規のことをもっともっと知ってください」
記念館の人のパッションが聞こえてくる!
偶然たどり着いた子規記念博物館。
子規記念博物館はこちら:https://shiki-museum.com
湯築城跡が導いてくれたことに本当に感謝です。
子規というのはホトトギスのこと。
ホトトギスは口の中がとても赤いことから、21歳で喀血、そして翌年肺結核とわかった子規が自分を重ね合わせて命名したという名前の由来に、なんとも切ない気持ちになりました。
そんなペンネームの他にも90ものペンネームを持っていたという子規。
その話はこちら:正岡子規の名前の由来が切なすぎる!ホトトギス!
数々のエピソードにまつわる展示が、とても見やすく読みやすくたくさんの工夫も凝らしながら本当に楽しめる博物館です。
今日のタイトルは、子供向けの博物館のパンフレットの表紙の言葉です。
こちらが全文。
「子規記念博物館(子規博)」では、松山出身の文学者・正岡式についての展示をしています。子規はどんな人だったのかな?何をしたのかな?展示室で子規のことをもっともっと知ってください」
館の人のパッションが聞こえてきます。
子規、新聞記者になる!
拓川おじさんの友人の新聞社へ
22歳で肺結核を患った子規ですが、25歳の時、日本新聞社という新聞社に入りました。
そして「日本」という新聞で、俳句や短歌を募集したり、小説や紀行文を書いたりしました。
子規の中には文章を書く仕事で成功したいという思いがありました。
あのフランスに行ったおじさんの加藤拓川の友達、陸葛南(くがかつなん)という人物がいました。
子規が上京した時からお世話になっていた陸葛南は日本新聞社の社長になっていました。
それで葛南に新聞社に入社させてほしいと頼んだのです。
葛南も子規の才能を認めていたので入社が許されました。
編集長という大役も!
その日本新聞社では明治27年(1894)に「小日本」という家庭向けの新聞を作ることになり、子規が編集長になります。
子規は編集の仕事に打ち込み、小説を連載したり、紀行文を発表したり、俳句を募集したりしています。
「写生」という方法に出会う!
子規はその「小日本」という新聞に挿絵を入れたいと考えました。
画家を探しているうちに、知り合いの浅井忠という画家から中村不折(ふせつ)を紹介してもらいます。
不折は挿絵や風景画、さらには書家としても活躍した画家で、西洋の絵の勉強をしていました。
子規は不折と日本画と西洋画の違いを話し合ううちに、西洋の絵には見たままを描く「写生」という方法があることを知ります。
この「写生」という方法を俳句に取り入れたいと考えました。
ここでもまた素晴らしい出会いのメカニズムが!
従軍記者として日清戦争へ
明治27年(1894)に日清戦争が起こります。
子規は28の時です。
自分の目で戦争の様子を取材したいと考えた子規は、肺結核を心配する家族や友人の反対を押し切って従軍記者として清へと向かいます。
子規が清に着く頃には終戦間際で、また軍が情報を厳しく取り締まっていたので取材もあまりできなかったそうです。
それにはがっかりした子規ですが、なんと、軍の医者として来ていた森鴎外と出会ったのだそうです。
子規は鴎外を訪ねては文学について話をしたとか。
2人の交流は日本に帰ってからも続くのですが、ここでもまた驚きの出会いのメカニズムが働いています。
そして入院… 生死をさまよい、松山へ
家族や友人の必死の看病で一命を取り留める
清にいたのは1ヶ月ほどでしたが、さすがに無理がたたって日本に帰るとすぐに神戸の病院に入院することになってしまいます。
症状は悪化、一時は生死をさまようほどでしたが、2ヶ月の入院ののち退院できました。
その後須磨の保養院に入り、体力が回復するのを待ちました。
そして明治28年(1985)8月、松山へと帰るのでした。
子規と漱石
子規の帰った松山では子規の親友・夏目漱石が中学校で英語の教師をしていました。
漱石が借りていた家で2人の共同生活が始まります。
子規が1階を使い、漱石が2階を使いました。
家の名前は愚陀仏庵(ぐだぶつあん)。
この愚陀仏庵に子規から俳句を教えてもらおうとたくさんの人が集まって来ました。
「松風会(しょうふうかい)」という、松山で俳句を作る人が集まって作った会の人たちです。
松山で俳句、といえば、街中にもたくさん松山は俳句の街と思わせる光景に出会いました。
こんな俳句の用紙が置かれ、投稿できるようになっています。
子規たちはたびたび句会を開いて熱中したそうです。
そのうちに漱石も一緒に俳句を作るようになり、そのペンネームが愚陀仏だったことから、この家が愚陀仏庵と呼ばれるようになったそうです。
この再現された愚陀仏庵だけは写真撮影が可能でした。
最後の旅で…柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺
子規は松山で約2ヶ月暮らしたのち、東京へ戻ることにします。
東京へ向かう途中、大阪や奈良に立ち寄ったといいます。
奈良では東大寺や法隆寺を見学したそうです。
そしてあの「柿くえば鐘がなるなり法隆寺」の俳句はその時に作ったものでした。
結核菌が背骨を溶かすって…
この旅の途中、子規は腰が痛くて歩くのが大変だったそうです。
リウマチかと思い、薬をもらいながら旅を続けたとか。
翌年医者に診てもらうと脊椎カリエスという病気でした。
結核菌が背骨に入り骨を溶かすという大変な病気です。
その後もこの病気が進み、最後には起き上がることもできなくなってしまいます。
この旅が子規にとって最後の旅となってしまいました。
写生!新しい俳句が作りたい!
子規は「俳句は文学!」と考えていました。
作った人の気持ちや、その時の様子が想像できる俳句作りを目指しました。
世の中の出来事や旅で見た風景などを、わかりやすい俳句にして新聞や雑誌などに発表しました。
あの挿絵画家・中村不折(ふせつ)から学んだ「写生」という描き方。
その写生の俳句を作ろうと俳句の革新に取り組みました。
子規の作るわかりやすく新しい俳句は多くの人の賛同を得て、やがて日本全国へと広まったそうです。
俳句の雑誌「ほととぎす」誕生!
明治30年(1897)、子規のわかりやすく新しい俳句をもっとたくさんの人に広めるために、俳句の雑誌「ほととぎす」が誕生します。
最初の「ほととぎす」は松山で、やがて読む人が増えて東京で発刊することになります。
ホトトギスは今も続く俳句の雑誌です。 つづく
まとめ
子規の生涯は35年という短いものなのに、記憶に残しておきたい素晴らしい人の出会いや数々のエピソードが山ほどあることに驚きます。
そしていつも周りに誰かがいる。
その魅力にどんどん引き込まれます。