「天からもらった幸せな老後、楽しまなきゃ!」という名の庭園へ!
覚えにくい名前が忘れられず、行ってみたかった天赦園!
思った以上に素晴らしいお宝の数々に驚きながら、宇和島市立伊達博物館を楽しみました。
博物館の後は、愛媛を代表する庭園「天赦園(てんしゃえん)」に向かいました。
2020年に「国内旅行業務取扱管理者」の国家試験を受けたのですが、各地の庭園の名前を覚えるのは結構大変です。
しかも県名や市の名前と結びつけるような問題が結構よく出ます。
それもあって天赦園には行ってみたかったのです。
天赦園とは
天赦園は宇和島藩第7代藩主である伊達宗紀(むねさだ)が、隠居場所として建造した池泉廻遊式の大名庭園です。
伊達家の家紋・竹に雀紋にちなみ、様々な種類の竹をはじめ、藤や花菖蒲などの四季折々の花が植栽されていています。
また、園内には多くの藤棚があり、中でも池上にかかる太鼓橋式の藤棚にかかる白玉藤は、この園ならではの風景となっています。
また、伊達家の家紋「竹に雀」にちなみ、さまざまな珍しい種類の竹が池を巡るように植栽されています。
毎年6月の上旬になると、花菖蒲が満開になり、素晴らしい眺めとなるそうです。
天赦園の花菖蒲は、明治30年ごろ9代藩主・伊達宗徳によって、江戸の岡山、佐賀、熊本の旧藩邸などから集められたものだそうです。
江戸系の約20種類の花菖蒲が植栽されているのだそう。
季節は桜の季節でしたが、桜が終わると5月下旬から6月上旬ごろに見頃を迎えるそうです。
天赦園の名前の意味が素敵すぎる!
覚えにくくて苦労した天赦園という名前は、伊達政宗が引退後の思いを述べた「酔余口号(すいよこうごう)」の中の漢詩からとって命名されました。
その漢詩とは、
馬上に少年過ぎ 世は平にして白髪多し
残躯は天の赦す所 楽しまずして是を如何せん
というもの。
現代風に訳すと
「若い頃は戦場で過ごしたものだが、
平和になって気づいたら白髪の老人になっていた。
幸せな老後は天が許したもの。
これを楽しまなくてどうする」
まさに私に言われているような気がします。
誰もいない天赦園を独り占め!
大きな池を囲んでいる庭園にはこの日、誰もいませんでした。
岬や入江、浦などをイメージして屈曲の多い線で囲まれた池には小島があり、池の要所の石組には和泉砂岩の海石が使われているそうです。
和泉左岸とは、和泉山脈、淡路島南部、讚岐(さぬき)山脈、高縄半島にかけて分布する白亜紀の砂岩層だそう。
こちらは春雨亭です。
能書家でもあった宗紀は、この書屋で書道を研鑽し、多くの貴重の書を残したのだそうです。
宗紀はこの天赦園で穏やかな余生を過ごし、明治22年に100歳の天寿を全うしました。
まさに天赦園!
木々に隠れて見えませんが、真ん中に屋根が見えているところが潜淵館(せんえんかん)付属の茶亭です。
右奥の芝生になっているところに、宗紀が退隠の居所となった潜淵館(せんえんかん)がありました。
茶亭はその付属建物として建てらてた書院式茶亭です。
宗紀はここで書道を楽しんだそうです。
潜渕館は明治29年に取り払われたそうですが、大正11年、昭和天皇陛下が皇太子のころ、天赦園御成の際の御座所にあてられたこともあるそうです。
よく歩いた1日の最後は道後ビールで乾杯!
この日は雨の中、よく歩きました。
朝イチで松山を出て大洲城に行き、初めての大洲の街を楽しみました。
その話はこちら:伝統の技術で復元!しっとりと雨の桜が似合う大洲城!
そこからまたJR特急に乗って宇和島へ。
宇和島城の階段には息切れしましたが、現存12天守を見ることが出来ました。
その話はこちら:現存12天守・宇和島城!伊達政宗の子が藩祖だった!
その後、全く期待していなかった伊達博物館が素晴らしかったこと!
そして天赦園では素敵な庭園を独り占め、という贅沢をさせてもらいました。
天赦園からお城方向に戻り、見つけたお店で道後ビールで乾杯です。
まとめ
地理の勉強をしていた時に知った「天赦園」という庭園の名前。
日本各地の庭園の名前がなかなか覚えられずに苦労したのを思い出します。
今回天赦園の名前の意味を知ってとても素敵なので驚きました。
天から与えられた老後、楽しもう!と改めて思いました。