伝統の技術で復元!しっとりと雨の桜が似合う大洲城!

大洲城

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伝統の技術で復元!しっとりと雨の桜が似合う大洲城!

愛媛3日目は雨。「やまじ風」で電車が止まる?

大洲城

日本全県めぐり2周目の旅、44件目は愛媛県を訪ねました。

初日は初めての街・西条に入り、

翌日は朝から今回の旅のきっかけ・愛媛民藝館に。

ひょんなことから今治へは社長さんが車で送ってくれることになりました。

今治の街と今治城を楽しんで、その日は松山で宿泊。

翌3日目は朝からこれも初めての街・大洲で大洲城、そのまま宇和島へ入る予定です。

そして3日目の朝、大洲城の開館9時に合わせて松山を出ようと思って準備を始めた時でした。

天気はあいにくの雨、そして地元のテレビのニュースでJR予讃線が「やまじ風」の影響で運休や遅れが生じている、というのです。

やまじ風とは

聞き慣れぬ「やまじ風」という言葉が耳に残りました。

やまじ風邪とは、愛媛県東部にある法皇山脈から瀬戸内海に面した平野部に吹き下ろす南よりの強風のことを言うのだそうです。

やまじ風はフェーン現象を伴い,吹き始めると気温が上昇し、吹き終わると下降するのだとか。

地元では,もともと南よりの強風を「やまじ」と呼んでいたそうですが、気象台の調査報告書などで「やまじ風」と呼称されたことから、この呼び方が一般的になったそうです。

岡山県の「広戸風」、秋田県の「清川だし」とともに日本の3大局地風(悪風)に数えられるそうです。

局地風の種類としては、広戸風とやまじ風は「おろし風」で同じ現象で、清川だしは地峡風と言うもので、発生原因は異なるそうです。

この日、乗ろうとしている予讃線は松山から南へ向かう松山駅8時10分発の電車です。

それに乗れば伊予大洲の駅に8時45分に着きます。

駅からお城までは歩くとだいぶあるようだったので、タクシーで向かうつもりでした。

その日は大洲城の後、また予讃線に乗って宇和島を目指し、宿泊も宇和島です。

でも、運休だとしたら旅の予定を大きく変える必要があります。

泊まっている松山のホテルのフロントに連絡して、延泊できるか、

そしてその日は松山観光に切り替えるか、ということまで考え始めていました。

とりあえずJRのHPで情報を確認しました。

確かに予讃線は運休、遅れが出ているようですが、それはどうやら松山から岡山方面の電車で、松山から宇和島方面は運行しているみたいです。

調べたやまじ風も瀬戸内海側のことのようだし、とりあえずチェックアウトして駅に行ってみることにしました。

大洲城

思った通り、駅に行くと岡山方面の電車は運休。

宇和島方面は運行していて、しかもアンパンマン列車!伊予大洲に向かいます。

大洲城

清流・肱川のほとりによみがえる大洲城!

大洲城とは

大洲城

大洲城の歴史は、鎌倉時代末期、伊予国守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城に始まると言われています。

その後、戦国時代を経て、近世初頭に大洲の地を治めた小早川隆景をはじめ、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰など、多くの武将が主人となっています。

大洲城のはじまり(1331~) 
大洲はもともと港を意味する「津」という文字を用い、大津と称していました。

大洲城

大津における城の創建は、元弘元年(1331)伊予国守護の宇都宮豊房に遡り、戦国末期の永禄11年(1568)までの237年の間宇都宮氏の居城でした。

永禄11年(1568)宇都宮は河野・毛利連合軍に敗れ、城は河野の武将大野直昌のものとなります。

小早川隆景・戸田勝隆の時代(1585~) 

大洲城

天正13年(1585)、羽柴秀吉は四国平定を果たします。

この戦いで、秀吉方の小早川・吉川連合軍に敗れました。

戦後、小早川隆景は、伊予35万石を与えられ湯築城を居城とし、大津城を枝城としました。

枝城とは、本城のほかに築かれた城のことです。

隆景が九州に転封となった天正15年(1587)、戸田勝隆が宇和・喜多郡16万石を封ぜられ主城を大津とし、板島、松葉、黒瀬の各城には城代を置きました。


藤堂高虎の時代(1595~) 

大洲城

文禄3年(1594)に朝鮮で病死した勝隆の後を受け、文禄4年(1595)6月に藤堂高虎が宇和郡板島7万石の城主として封ぜられました。

高虎は、板島に城代を置き、大津城を居城としました。

慶長5年(1600)高虎は、関ヶ原の戦いの恩賞として、今張国分山城を追増され20万石となり、さらに、慶長7年(1602)には今治城の普請を始め、大津には養子の高吉を城代に据えています。

大洲城

慶長10年(1605)奉行田中林斎は、命を受けて城下に塩屋町を創設した商人に褒状を送っています。

このころから大津が城下町としての形態を整え始めたそうです。

脇坂安治の時代(1609~) 

大洲城

慶長14年(1609)、淡路国洲本より高虎と同じ近江出身の脇坂安治が喜多・浮穴・風早の三郡において5万3500石を与えられ、大津城を居城としました。

脇坂は、給人所法度や庄屋体制を確立し、大津藩での近世的封権制度を形付けたと考えられています。

脇坂は、元和3年(1617)5万5000石で信濃飯田城主として移りました。

加藤貞泰の時代(1617~) 

大洲城

同年、伯耆国米子から加藤貞泰が6万石で大津城に入城します。

以来、加藤氏の治世は版籍奉還まで続きました。

加藤氏入城の際には、すでに城郭の大枠はほぼ整備されていたものと考えられているそうです。

伝統の技術を受け継ぎ、見事復元!

大洲城

大洲城の天守は明治21年(1888)に取り壊されてしまいました。

4つの櫓は解体を免れ、どれも国の重要文化財に指定されています。

大洲城

4層4階の天守は、明治期の古い写真や「天守雛形」と呼ばれる江戸時代の木組模型などの資料をもとに平成16年(2004)に木造で復元されています。

使用した木材は全て国産のもの。

大洲城

その産地もちゃんと記録して公開しているのが印象的です。

御城印とお城カード!

大洲城

御城印とお城カードもいただきました。

大洲城

天守からみる肱川(ひじかわ)

大洲城

タクシーでお城に向かう時も、川の上に美しい姿を見ることができました。

この肱川のことを調べていたら、面白い現象が起こることを知りました。

大洲城

晴れた日の朝、上流の大洲盆地で涵養された冷気が霧を伴って肱川沿いを一気に流れ出すという珍しい現象が起こるのだそうです。

まとめ

大洲城

雨と風でJRも運休になるほど悪天の日でしたが、現地では雨もそれほどでもなく、かえってしっとりとした雰囲気の中、桜に囲まれた大洲城は素敵な姿を見せてくれました。

展示もわかりやすく丁寧で楽しめました。

初めての大洲の街、この後、臥龍山荘と盤泉荘をまわります。

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