シングル子育て奮闘記 天国に一番近い島ニューカレドニアへ②
行き先はニューカレドニアに決定!あとは私が退院できる日を待つだけ
常磐ハワイアンセンターに始まった行き先選びはその後ハワイになり、
そしてニューカレドニアに行きつきました。
非日常、
そして娘が楽しめる何かがある、
と、行き先の決め手となる最初の条件に一致しただけではなく、
「天国に一番近い島」と言うニックネームが決め手となりました。
天国に一番近いならパパも近くにいてくれるはず。
天国に一番近いというフレーズの力を借りてパパのことを伝えよう。
どうやってパパの死を娘に伝えたらいいのか悩んでいた私には、とても心強いオプションでした。
こちらからの続きです:シングル子育て奮闘記 天国に一番近い島ニューカレドニアへ①
ミッションはただ一つ。天国に一番近い島でパパのことを伝える
ニューカレドニアは私の中で決定事項となりました。
入院中のベッドからいろいろ手配して、準備をしていきました。
当初、ツアーではなく個人旅行にしたくて、クラブメッドに申し込みました。
以前外資系のスキューバダイビング用品の会社に勤めていた時、(なーんちゃって)通訳で出張について行くことがありました。
さすがスキューバダイビング用品の会社。そういった集まりはリゾート地で開かれることが多いのです。
ある年の会議はフランス・ニースの近くのリゾート地で、それがクラブメッドの施設でした。
そんな会議には海外の人たちは皆、奥様、家族連れで参加していて、子供向けのアクティビティも充実しています。
しかもオールインクルーシブ(追加料金なし)で様々なアクティビティが楽しめるのが魅力でした。
その印象が強くてニューカレドニアでもクラブメッドを予約したのですが、その後クラブメッドがニューカレドニアからの撤退を決めてしまい、予約はキャンセルになってしまいました。
他を探さなければならなくなり、日本の旅行会社のツアーに申し込むことにしました。
ニューカレドニア「地球の歩き方」はこちら:https://www.arukikata.co.jp/country/NC/
2001年12月年末、3ヶ月の入院を終え退院。いざニューカレドニアへ
2001年12月年末、私は3ヶ月近い入院生活を終え退院しました。
年末年始を両親の実家のある新潟で過ごし、年明けに9月以来留守にしてしまった東京の家に帰りました。
この家を出たのは9月でしたので、3ヶ月以上ぶりの帰宅です。
やっと帰れた我が家にホッとした反面、あー、もうパパはここにはいないんだと言う現実に直面した瞬間でもありました。
特に壁掛け時計を見ると、もう7時かぁ。そろそろ帰ってくるかな、などと条件反射のように思ってしまう。
それが“あ、もういないんだ”と気づいて虚しくなるのでした。
家の中にはそういう仕掛けがあちこちにありました。
ニューカレドニア旅行はそんな日常から逃れることのできる、まさに求めていた非日常の旅でした。
2002年1月14日、成田からニューカレドニアの首都ヌメアへの直行便で出発です。
飛行時間8時間半程度。時差は2時間です。
夜8時過ぎに出て現地には翌15日の朝7時過ぎに到着することになります。
朝7時過ぎにヌメアに到着、バスでホテルに向かう
朝7時過ぎにトントゥータ空港に到着、バスでヌメア市内を抜けてホテルのあるアンスバタ(Anse Vata)と言うリゾート地に向かいます。
空港からヌメアまでは50分程度、そこを抜けてアンスバタへは1時間以上かかることになります。
空港からバスに乗るとさすがにツアー客は新婚さんがほとんどでした。
親子連れもいましたが、母娘で、しかも母親は足に装具(笑)
装具とは骨折後の骨に負担がかからないように膝で重心を支える道具で、退院後結構長い間つけていました。
本当はこの時期、まだこの装具に加え松葉杖も使用していて旅行にも松葉杖をついて行こうと思っていたのですが、荷物もありどうにも身動きが取れないので旅行直前に松葉杖は置いて行くことにしたのでした。
アンスバタへの途中、マルシェのある場所のレストランでお昼を取りました。
ホテルはパークロイヤル・ヌメア
さてホテルに到着です。
アンスバタの海岸線に沿って通るロジェ・ラロック散歩道がアンスバタのメインストリートです。
そのロジェ・ラロック散歩道沿いにたくさんのホテルやレストランが並んでいます。
私たちの泊まった「パークロイヤル・ヌメア」もその一つでした。
広々したロビー、中庭には大きなプール。
泳ぐのが大好きな娘はすでに大喜びです。
部屋もプールビュー。
チェックインして水着に着替えると、早速飛び込んでいました。
ひと泳ぎしてから、ホテルの周りを散歩しに外に出ました。
ニューカレドニアはフランス領なのでお店も街の雰囲気もおしゃれです。
パパの死を娘に告げるミッション決行の夜
娘も楽しんでくれているし、私も楽しくて、
このまま一番大事なミッションを果たすことなく終わってしまうのではないかと自分でも心配でした。
そのミッションはこの日の夜と決めていました。
この日の夜、何を食べたのか全く思い出せません。
とにかく早くミッションを果たして、残りの時間はその傷を癒すことに使おうと思っていました。
ひどく悲しませてしまうことは分かっています。
でもそれは私たちが親子が避けて通れない、絶対越えなければならない壁。
それを24時間一緒に支えたくて、私が退院してからにしようと決めたのです。
「大事な話があるの」と、心を鬼にして娘と向き合い、パパに起こったことを話しました。
慟哭(どうこく)とはまさにこのことか
娘は黙って聞いていましたが、
はち切れそうだった風船が突然破裂するかのように、大きな声でおいおいと泣き出しました。
しくしく、とか、ポロポロ、とかから始まるのではなく、突然最初から号泣でした。
慟哭(どうこく)とはまさにこのことを言うのではないでしょうか。
そして「まさかそんなことになってるなんて全然思ってなかったよー」と号泣しながら言ったのです。
6歳の子がこんな言葉を発するんだととても驚いたのを覚えています。
ニューカレドニアは天国に一番近い島と言われているから、パパに一番近いところでこの話をしようと思って二人でここにきたんだよ
その晩は泣いて泣いて泣いて泣き疲れて寝てしまいました。
ピンクのタオルだけが知っている夢遊病の夜
泣いて泣いて泣いて泣き疲れて寝てしまった娘に、私も添い寝するように寝ていたはずでした。
が、夜中に泣き声がしてふと目が覚めると隣に娘がいません。
ベッドから降りて部屋の片隅で、ピンクのタオルを抱いてうずくまっています。
ピンクのタオルとは、娘が生まれた時にいただいたものなのですが、とにかくその手触りが娘のお気に入りで、寝るときはそのタオルがないと寝れないほどの我が家にとっての重要アイテムです。
どこへ行くのも一緒。もちろんこの旅行にも持参しました。
慌ててベッドに連れ戻しましたが、本人は寝ているようでした。
そしてまたうとうとすると、またどこかで泣き声が聞こえます。
また娘がベッドから出てうずくまっていました。
その時のベッドに連れ戻しましたが、この時も反応がないので寝ているようでした。
そんな夜が明け、朝になりました。
心配していた娘も意外とスッキリと元気そうです。
昨晩、ベッドから出て泣いていたことも覚えていないそう。
ただあんなに大事なピンクのタオルがないことに気づきました。
昨日の夜ずっと持っていたのだからないはずはないのに見当たりません。
まさかと思ってベランダから外を見ると、なんと階下の屋根の上にピンクのタオルが。
昨晩、ベランダにも出て泣いていたのだと思うとそこまでのショックを与えてしまったことに心が痛みました。
ただこの朝までそれを引きずっていないことが驚きでもあり、安堵でもありました。
今日は海に行って、パパのために貝を拾うんだと言ったのです。
あれだけ悲しみを悲しみとして我慢せずに慟哭したおかげで、
夢遊病のような行動をとりながらも、一夜明けてすでにその事実を事実として飲み込んで、
自分ができることをしようとする姿に驚くとともに、
人間の強さを娘から教えてもらうことになりました。
そしてこれからは「天国に一番近い島」での日々を思う存分楽しんでもらおうと私もミッションを果たした安堵感に浸ることができました。
翌日はここが「天国に一番近い島」と言われている「ウベア島」に行く予定です。
(つづく)