父の会社の倒産がきっかけで、当面の間借りのはずが…
こちらからの続きです:東京生まれの東京育ち
結局は高輪の父の実家の2階に
幼稚園から中学卒業までの12年も居候することになった我が家族。
私の高校入学と同時に母の知人の転勤期間中だけ、その家を借りることになり
引っ越しました。
町内での引っ越しです。
そこでは短大を卒業して、ホテルに入社1年目まで
6年間ほど暮らしました。
その6年間に父の会社が再び倒産、また同じ業種で新潟で再起するために
今度は洋裁のできる母も助っ人として駆り出されることになり、
母も新潟に行ってしまいました。
私と弟、そして父の妹である叔母親子との生活が始まるのですが、
そのことはまた機会があればお話しします。
60年の転居歴を話しているとなかなか今日に辿り着きませんね💦
15年くらいをちょっと早足で振り返ると…
社会人1年目の途中でその家を返すことになり、
それを機会に独立、一人暮らしを始めました。
梅ヶ丘→あざみ野→鷺沼→有馬→岡本…
とこうして書いてみると結構な引越し魔でしたね。
ちなみにあざみ野は横浜市、鷺沼と有馬は川崎市…なので
「ずっと東京です」は正確には「ずっと東京近辺」です。
その15年の間、仕事もホテル→アウトドアメーカー→テレビ制作代理店
→アウトドアメーカー(2番目の転職先と同じ会社に呼び戻してもらいました)と変わり、
出産を機にアウトドアの会社を退社。
子供が1歳になったのを機に再就職先を求めて就活。
1年間のブランクを経て、今の会社に派遣として働きはじめました。
乳児がいての就活の難しさもまたお話しできたらと思います。
1年半派遣で勤務したのち、中途採用試験を受けて正社員として入社しました。
1998年8月。世田谷の岡本、最寄り駅だと用賀に住んでいた時の話です。
用賀の保育園に娘を預けて、東京オフィスのある五反田に通っていました。
その日は突然やってきました
そして2001年9月の敬老の日の連休、
6歳だった娘と私のパートナー(籍は入れていないのでこう呼んでいます)、私の3人で
新潟に住む両親のところに遊びに行った帰り。
関越道・高崎辺りで交通事故に巻き込まれ、
3人それぞれ大怪我を負い、別々の病院に救急搬送されました。
娘は内臓の4箇所に損傷を負い、開腹手術。
私は右大腿骨脱臼、右脛骨(スネです)骨折、右果骨(グリグリです)骨折で要手術。
パートナーは両大腿骨骨折で要手術。
まあそれぞれに大きな怪我でしたが、
治ればまた元の生活に戻れると信じていました。
娘は即手術。
開腹して内臓を全部出し、損傷している箇所を見つけて閉じる、
という大きな手術でしたが、
術後は若さゆえどんどん治癒して快方に向かっていました。
私は交渉して何とか娘と同じ病院に転院し、同じ病室に入れてもらいました。
まだ手術前で身動き取れず、娘の面倒を見ることもできません。
慌てて新潟から飛んできた両親も、場所が高崎では仕事のこともあり、
そうそう長居をして私たちの面倒を見ることもできません。
そこで私は自分の手術は延長して、娘と二人、新潟の病院に転院することにしました。
娘は順調に回復して、転院する頃にはすっかり元気を取り戻し、
退院するまでに回復していました。
転院の日、私は寝たまま救急タクシーに乗せられ、高崎から新潟の病院に引っ越しました。
両親は数度の倒産にもめげず、
その頃も新潟で婦人服の小さい縫製工場をしていたので、
朝、娘を病院の私の部屋に届けて、娘は昼間私と病室で過ごし、
夜、仕事が終わるとまた両親が迎えにきて連れて帰る、という生活が始まりました。
小さいながらも個室に入れたので、
周りに気を遣うこともなく過ごすことができました。
事態がまた大きく変わったのは転院してすぐのことでした。
高崎の別な病院のICUに搬送されていたパートナーが、
怪我が原因の血栓が肺動脈に飛んで詰まり、肺血栓症で亡くなったのです。
(つづく)
なかなか神戸に辿り着きませんが…
この辺の話をしないと神戸に行き、現在に至るまでの経緯が説明できないので、もうしばらくお付き合いください。