民藝の世界に浸れる素敵な空間!鳥取民藝美術館
1枚のフライヤーがきっかけで鳥取へ
東京の国立近代美術館の「民藝100年展」でもらったフライヤーがきっかけで鳥取市に来ています。
「吉田璋也と民藝を作った人々」のフライヤーです。
民藝100年展はこちら:「民藝の100年」芹沢銈介の民藝地図にひとめぼれ
まずこのフライヤーのデザインがキャッチーだったこと。
民藝100年展がとても面白かったこと。
吉田璋也という人物を知らなくて興味が湧いたこと。
開催場所が鳥取だったこと。
(日本全県めぐり2周目の旅で一度はカウントしたものの、空港のみの利用だったので自ら却下。
未訪問県の1つになっていました。)
フライヤーに記載の鳥取民藝美術館のロゴが行ってみたくさせるものだったこと。
などなど、今考えれば行動の裏にはたくさんの理由があったと思いますが、
それらがフライヤーを見た瞬間に一気にまとまって私の心に飛び込んできて、
行ってみたい!2月の6日まで?水曜休館?いつ行ける?ここなら行けそう!
と、国立近代美術館から帰ってきてからすぐに行動に結びついてしまいました。
それだけにとても楽しみにしていた鳥取旅行です。
初日の行動はこちらから:日本全県めぐり2周目はいよいよ39県目!鳥取へ!
鳥取民藝美術館へ!
鳥取民藝美術館は、昭和24年、鳥取の医師・吉田璋也(明治31年〜昭和36年)により
民藝の思想の普及と、新たな創造の指針を示すために
鳥取の民藝運動の拠点として鳥取市の栄町に設立されました。
今ではその前の通りは民藝館通りと呼ばれています。
美術館と隣接して「鳥取たくみ工芸店」という日本全国の民藝製品を扱うお店や、
日本のしゃぶしゃぶの原点とも言われている鍋を出す「たくみ割烹店」が併設されていて、
美術館と共に楽しむことができます。
美術館の前には階段があって、2階が入り口になっていました。
ここに受付があって、この階には常設展示が、その上の階には今回の企画展が展示されています。
撮影は禁止のものには印がしてあり、ほとんどの作品が撮影可能でした。
入館チケットもとても素敵です。
民藝とは?
そもそも民藝とはなんでしょうか。
民藝とは民藝運動の父とも呼ばれる柳宗悦氏が見出した、民衆的工芸のこと、およびその略です。
民藝とは、民衆が日常使う工芸品で、民家、民具、民画を総称して民藝と呼んでいます。
柳宗悦のほか、河井寛次郎、濱田庄司などが加わって生活文化運動を提唱しました。
観賞用の華美な装飾を施した工芸品が主流だった時代に、
名も知れぬ職人によって作られた日常生活の中の道具に美しさを見出し、美は生活の中にある。
工業化・大量生産で、失われていく日本各地の手仕事の文化への警鐘でもありました。
昭和の初頭に起こった民藝運動は現在もあらゆるところで受け継がれています。
吉田璋也とは?
民藝の父とされている柳宗悦氏は、民藝の火を発見し、その思想や理論を深めて民芸運動を推進しました。
一方、吉田璋也は「民藝の母」と呼ばれているそうです。
民藝を過去のものではなく新たな民藝を生み出し、
その企画、デザイン、生産、販売の一貫した体制を確立しています。
柳氏の唱える民藝の思想を実践的に展開、その普及に尽力したことも母と呼ばれる所以です。
なんと新潟とご縁があった!
吉田璋也は明治31年、鳥取の医師の長男として生まれています。
そして昭和6年に新潟医学専門学校(現在の新潟大学医学部)に入学しています。
なんと新潟にご縁があったのです。
式場隆三郎と同級生!
そしてなんとなんと、その学校で式場隆三郎氏と同級生だったのです。
式場隆三郎氏のことは2020年の新潟市美術館の企画展で知りました。
放浪の画家・山下清を世に出したのはこの式場氏です。
その時のインスタはこちら:https://www.instagram.com/p/CFlnGVFlJCw/
後に2人とも民芸運動に参加することになりますが、ただこの時はまだ民藝運動に参加する以前のこと。
雑誌「アダム」創刊!
共に交友会誌の編集委員となり、白樺派に傾倒していた2人は「アダム社」を結成。
「新しき村新潟支部」の看板を掲げ、雑誌「アダム」を創刊したそうです。
この雑誌「アダム」も展示されていて、なんと岸田劉生が表紙を描いていました。
それが大正8年ごろです。
柳宗悦と出会う!
柳宗悦とはその翌年、大正9年に出会うことになります。
千葉の我孫子に柳宗悦を訪ね、講演会の開催を依頼。
新潟で白樺派の文化活動を展開したそうです。
耳鼻咽喉科の医師となる!
大正10年、学校を卒業し医師として第一歩を踏みだします。
その後は京都帝大で博士号を取得、
京都、倉敷、盛岡、大阪など各地を転々としたのち、奈良へ。
偶然京都へ転居していた柳宗悦と近くに住むことになり関係が一層深まったとか。
その後柳は「民藝」という造語と、新たな美の概念を打ち立て、
大正15年、「日本民藝美術館設立趣意書」を著し、民藝運動が本格的に立ち上げました。
これに吉田璋也も参画していきます。
郷里・鳥取で耳鼻咽喉科医院を開業!そして新作民藝運動開始!
昭和6年、吉田璋也は地元・鳥取で医院を開業します。
と同時に新作民藝運動を起こします。
新作民藝運動とは、柳宗悦氏の見出した民藝の美を生活に取り入れるため、
現代の生活に即した工芸品を新たに企画、デザイン、生産、販売して普及する運動のこと。
鳥取民藝会を設立して、牛ノ戸窯の再興をスタート。
地域の職人を結集して、木工、家具、染織、金工、和紙など、幅広い分野での新作民藝品の生産に尽力しました。
それで生み出されたのが「染め分け皿」や
「木製電気スタンド」、
「ににぐりネクタイ」などがあります。
昭和7年には「たくみ工芸店」を創業、翌年には東京支店を銀座に出店し、
全国レベルでの民藝品の販売、流通の体制を確立しています。
民藝のプロデューサー!
新作民藝の生産にはプロデューサーが必要だとして、自らもその資質を自覚していたとか。
その資質とは、
美しいものを採りあげる眼。
自分でもデザインできる力。
製作上の技術に多くの協力者を得られる力。
繰り返して製作させる力、すなわち売り捌く力、だそう。
生まれ変わったら建築家になりたかった!
民藝の美に囲まれて暮らすのが理想。
氏にとって民藝は工芸にとどまらず、建築や料理までが民藝の大切な領域だったそうです。
「吉田璋也と民藝を作った人々」展
昭和6年に新作民藝運動を鳥取で起こした吉田璋也氏が、
活動を進めていく中で協力を得、関わった人一人一人に焦点を当てています。
吉田璋也と人々との1対1の関係も面白いし、多くの人々がお互いが引き合うように出会って
関係が出来上がってり大きな流れを作っていく全体図がとても面白い!
柳宗悦
柳宗悦は民藝の師であり人生の師でもあった。
バーナード・リーチ
イギリス人でエッチングの画家だったが、柳宗悦との出会いから陶芸家に。
河井寛次郎
京都に転居した柳宗悦に、当時京都にいた濱田庄司が河井寛次郎を紹介。
濱田庄司
明確な出会いの接点は定かではないらしい。でも出会っているという必然。
黒田辰秋
初めて知る名前でした。
氏の作品を鳥取での帯留め、茶托、円卓などの木工の手本とした。
芹沢銈介
初の個展が鳥取で開催されていた!
棟方志功
吉田璋也の尽力で鳥取で個展を開催していた!
式場隆三郎
なんと2人とも新潟医学専門学校の同級生!
文芸活動から民藝運動へ。
まとめ
東京の国立近代美術館でもらった一枚のフライヤーが、また新たな人物と美術館に繋いでくれました。
鳥取民藝美術館で開催の「吉田璋也と民藝を作った人々」展。
吉田璋也と人々との1対1の関係も面白いし、多くの人々がお互いが引き合うように出会い、
どんどん関係が出来上がり大きな流れを作っていく全体図がとても面白い!
1階の常設展示、建物全体、お隣のお店、そして鳥取市全体にも興味津々の旅でした。