日本美術界の旋風児「尾竹竹坡展」に行ってきました!

尾竹竹坡展

目次

日本美術界の旋風児「尾竹竹坡展」に行ってきました!

これってアートのわらしべ長者効果?

新潟市中心部にある新潟日報社本社ビル・メディアシップ。

このビルの5階にある「にいがた文化の記憶館」で開催中の

「日本美術界の旋風児・尾竹竹坡展」に行ってきました。

確か新潟市美術館に行ったときにこのフライヤーをもらってきていて、

正直それほど興味があったわけではなかったのです。

「にいがた文化の記憶館」には前にも行ったことがあって、

情報量の多さにとてもじゃないけど1回では見切れずに、またいつか行こうと思っていたので、

ついでがあれば行こうかな、程度でもらってきたフライヤーでした。

その程度の興味でしかなかったこの展示に(失礼…)

ぜひ行こう!と思ったきっかけは先日行った蕗谷虹児記念館のリーフレットでした。

はり絵画家内田正泰展

蕗谷虹児記念館へ行ったお目当てははり絵画家・内田正泰氏の作品で

その中で蕗谷虹児氏の年譜を見ていたら下のような記載があったのです。

「明治31年 新潟県新発田市に生まれる。本名一男。13才、母エツ死去。

大正元年 14才、同郷の日本画家、尾竹竹坡の内弟子となり上京。」

え?尾竹竹坡?あれ?フライヤーの人かな?

蕗谷虹児記念館

甘い風貌で少女趣味の画風の蕗谷虹児氏と

このカツオの日本画の尾竹竹坡との組み合わせがとても意外な感じがして

へー!この人の内弟子だったんだ!と

さほど興味のなかった2人に俄然興味が湧いた瞬間でした。

(失礼ながら蕗谷虹児氏の絵も正直あまり好みではありませんでした…。)

去年の夏、偶然見かけて大好きになった内田正泰氏の個展で蕗谷虹児氏のことを知り、

蕗谷虹児氏の年譜を見ていて尾竹竹坡氏に繋がり、

その尾竹竹坡展が今自宅近くのメディアシップで開催されていて、

そのフライヤーを偶然持っていたって、この流れに感動してしまいました。

アートのわらしべ長者効果?とでもいいたくなります。

文化の記憶館のFBページはこちら:https://www.facebook.com/にいがた文化の記憶館-1401402206784692/

本美術界の旋風児・尾竹竹坡の波瀾万丈な人生

尾竹竹坡展

尾竹竹坡は1878年(明治11年)生まれの新潟市出身の日本画家で

尾竹越堂、竹坡、国観の3兄弟ともが日本画家でした。

その中でも尾竹竹坡は岡倉天心から「天才」とまで言われた画家だそうです。

岡倉天心は急激な西洋化が押し進められた明治時代に、

日本の伝統美術の優れた価値を認め、近代日本美術の発展に大きな功績を残しました。

歴史の教科書にもフェノロサと共に名前が出ていて、

現在の芸大の前身である東京美術学校の設立にも尽力した人物です。

青年時代の尾竹竹坡は兄の越堂を頼って富山に行き、そこで薬の包装版画の下絵画家をしていました。

日本画家を志して上京した後、岡倉天心主催の玉成会に合流。

1907年創設の文展(今の日展)で入賞するなど日本画壇で活躍します。

が、よく08年、玉成会の審査員選びで岡倉と衝突、

玉成会を退会し事実上日本画界から締め出された形になりました。

その後文展に何回か入賞したものの、1913年には文展事件で落選。

横山大観を先頭とする学校派審査員が起こした不可解な落選事件です。

そもそも文部省の美術行政が悪いのだと、その改革のために国会議員に立候補しますが、落選。

こうして美術史から消されてしまう破天荒な生涯を送りました。

必見!尾竹竹坡に弟子入りした蕗谷虹児氏の新聞連載自伝パネル

はり絵画家内田正泰展

尾竹竹坡の作品の展示の前に、たくさんのパネルが展示されています。

1パネルに4話、全部で8パネルと半分、計32話で綴られた

1965年新潟日報に連載の蕗谷虹児氏の生い立ちの自伝です。

その中で内弟子に入った尾竹竹坡氏のことも書かれていて、

上の文展事件あたりのことにも言及しています。

この連載がとにかく凄くて、引き込まれてしまいました。

13歳という若さで母親を亡くし、14歳で尾竹竹坡に弟子入りして上京します。

新潟から出てきて苦労を重ね、挿絵画家として成功していくまでの話が全32話で綴られているのですが

パンフレットの彼の年譜には出てこない、気の遠くなるような苦労の時代があったことに驚きました。

どんどん引き込まれて、途中で時間がなくなってまた翌日来館して読み終えました。

本にして出してほしいくらいです。

これを読んだことで、私の蕗谷虹児氏に対する興味がさらに増しました。

蕗谷虹児記念館

前期展示作品「鰹」

尾竹竹坡展

写真撮影ができないので作品の写真はありませんが、

このフライヤーの表紙になっている「鰹」も展示されています。

実物は背中の青色がもっと立っていて、とても美しい絵でした。

波瀾万丈の生涯を送った尾竹竹坡ですが、

この作品は昭和7年に個展開催を目指し制作し完成、表装も終えて個展開催を待っていました。

が、その後病床に臥し、昭和11年58歳で亡くなっています。

展示資料の当時の新聞広告も面白い!

当時の様子を示す資料として当時の新聞の展示もあるのですが、

そこに掲載されている新聞広告もとても面白いものがありました。

大正3年(1914年)の朝日新聞で作品50余点を展示する

「尾竹竹坡試作会11月1日から25日」という展示会のお知らせの横に

日本橋・白木屋呉服店の広告が掲載されていました。

「羽織裏陳列会」と「本年流行ショール陳列会」です。

いつの世もファッションは人々の関心ごとなのですね。

まとめ

去年の夏、偶然見かけて大好きになった内田正泰氏の個展で蕗谷虹児氏のことを知り、

蕗谷虹児氏の年譜を見ていて尾竹竹坡氏に繋がり、

その尾竹竹坡展が今自宅近くのメディアシップで開催されていて、

そのフライヤーを偶然持っていたという

アートのわらしべ長者のようにしてたどり着いた尾竹竹坡展。

展示されている蕗谷虹児氏の新聞連載のパネルが必見です。

後期展示も行ってみたいと思っています。

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