母が遺したもの
東京から引っ越し荷物が着きました
木曜日に東京で見送った引っ越し荷物を、昨日(日曜日)の夕方に新潟で受け取りました。
東京の住まいは2年間の仮住まいで、家具などもレンタルだったのでそんなに荷物はないとたかを括っていたら、2年間ともなると意外と結構なものが溜まっていました。
極力捨てて捨てて、最初から10個と決めていた段ボールに何とか収めました。
昨晩、その段ボールを開けて食器を片付けながら母のことを思っていました。
ここ新潟の食器棚には、両親が住んでいたマンションから捨てられずに持ってきた食器がいくつかあります。
その中でもこの小皿は昭和48年(1973年)、私が小学校5年生から6年生になる春休みに家族で京都旅行をした時に母が中宮寺で買ったものです。
旅行でお皿買うの?と子供の私にはお土産の観念の違いに驚いたものです。
逆に驚いたからこそとても印象的で、このお皿にまつわる忘れられない思い出として記憶に残っています。
お砂糖のかかったお煎餅みたいな見た目と、可愛らしい花柄。
お汁粉を食べるときに塩昆布が乗ったり、おかゆの時に梅干しが乗ったり、我が家では普段使いで重用されていました。
突然逝ってしまった母
2016年の夏、母は突然逝ってしまいました。
とても元気で、要介護2の父の面倒を自宅で見ながら、朝ご飯が済むと毎朝自転車で15分ほどの市民プールで泳ぐのを日課としていました。
最初はプールでウォーキングしていたのですが、いつからかスイミングのクラスに参加して泳ぎを教えてもらったようです。
もともと泳げる人でしたが、ちゃんと習いたかったのだと思います。
亡くなった2016年には毎朝1キロ泳ぐと言っていました。
1キロって25メートルプール20往復!すごいですよね。
亡くなった後、母の心拍数や呼吸数が記録されたノートが出てきたのですが、それを見た看護学生だった娘がびっくりしていました。
おばあちゃん、老人じゃないみたい!
そんな健康体だった母は、その朝もいつも通りに自転車に乗ってプールを目指していました。
その途中の横断歩道で、向こうから来た自動車が右折する際自転車にぶつかり、そのまま転倒。
頭を強く打って意識のないまま病院に運ばれましたが、そのまま逝ってしまいました。
思えば反抗ばかりの娘でした
神戸の会社に出社してすぐにその訃報を聞き、新潟に駆けつけました。
思ってみれば反抗ばかりしていて、ちっともいい娘ではありませんでした。
全部受け止めてくれるから優しくできない、みたいな変な意地のようなものがあった気がします。
今考えてみれば、何でもできて、本当にスーパーウーマンだったのに、母だというだけで何となくそれを認めたくない存在でした。
料理も洋裁も上手で、読書好きで何と言っても明るくて、怒られた記憶も特になく、勉強しなさいとも言われたこともなく。
なのにママは弟の方が可愛くて仕方ないと思い込んでいたひねくれ者です。
肝心な時に助けてくれるのはいつも母でした
肝心な時にはいつも前面に立って助けてくれました。
小学校6年生の時、ある朝学校に行ったらクラスの誰もが話をしてくれない、という今考えても人生で一番ショックだった事件がありました。
当時、クラスの女子と男子は男子が何した、とか、女子が何した、とかお互い何かにつけいがみ合っていて、私は女子のまとめ役的存在でした。
私の何かが気に食わなかった男子のリーダーが、クラス全員にもう私とは口を聞くなと命令したようでした。
クラスで力のある男子たちだけでなく、
同じ班のいつもニコニコして優しい男子3人も、話しかけてもうつむくだけ。
同じ班の仲良しの女子も同じでした。
他に逃げ場のない私にとっては本当にショックな出来事でした。
またこのことが私のそれ以降の性格に大きな影響を及ぼしたのですが、それはまた機会があったらにします。
翌朝、私はもう学校には行きたくない、と初めてそのことを泣いて母に話しました。
休みなさい。行かなくていいから。
そう言って母はそのまま学校に直談判に行ったのでした。
まあ、子供同士の関係がそれで普通に戻るということはありませんでしたが、担任の先生もそんなことがあったとは知らなかったので、クラスに話して私が戻って来れるような状態にはなりました。
私は娘を未婚で産んでいます。
本来なら親として恥ずかしいことだったのかも知れないのに、そんなことはお構いなしに私の妊娠・出産を喜んで、そして誰よりも娘を愛し可愛がってくれました。
出産後、新潟から東京の病院に駆けつけて、新生児の初孫を抱いてポロポロと大粒の涙を流してくれたことは今でも忘れません。
洋裁を始めて素直になれた
大人になっても母との接し方は子供じみていました。
照れ隠しゆえのツンデレなのか、娘にも
どうしてママはおばあちゃんと話す時怒ってるの?
と言われる有様。
そんな母への接し方が次第に変わっていったのは、50歳を目前に自分探しをした結果、一番やりたいことが洋裁だと思い、洋裁を始めてからでした。
母は洋裁学校を出ていて、私たちが子供の頃着ていたものは全部母の手作りでした。
しかも父の会社が倒産し、父が再起のため立ち上げた会社を母も手伝っていたので、洋裁に関してはプロです。
自分で始めてみてわかりましたが、洋裁ってただ縫えば出来上がるというものでは全くなくて、デザインだけではなく、袖が有無、裏地の有無、ファスナーの位置、襟の形など、さまざまな要素で縫い方も縫う順序も全く変わってしまう。
全体を俯瞰で見てコツコツ仕上げていく、しかもとても地道な作業です。
それを難なくこなし、何を聞いても即答できる母がとてつもなく偉大に思えました。
プロとして素直に尊敬することができたのです。
それからは接し方も以前とは違ってきたように思います。
亡くなってさらに偉大さが見えてきた
母が亡くなってからはさらに母の偉大さがわかってきました。
私が高校の頃から、父の縫製工場を手伝って働いていた母のことを、ずっと父の手伝いだと思っていました。
でも母が亡くなり、残されたいろいろな状況から考えると、単なる手伝いというよりは段取りから納品まで、母がいたからこそ回せていたのではないかと思うようになりました。
父には悪いですが、母がいたからこそあの工場は回せていたのだと確信しています。
受け継いだ旅先で食器を買う楽しみ
そんな母が遺した中宮寺の小皿。
子供の頃、お土産にお皿?と違和感を覚えた母の行動を、今は私が受け継いでいます。
1998年、佐渡おけさの魅力に取り憑かれた佐渡旅行で買った異名焼の徳利と盃。
2007年、娘の夏休みの自由研究で行った石川県で買った九谷焼の皿。
2015年、仙台で買った台付きグラス
2017年、長崎で買ったガラスの小皿(もう1枚、薄いピンクもあったのですが、引っ越しの時に割れてしまいました。)
2018年、有田の陶器市で買った着物のお皿。
どれも見るたびにその旅や街の様子を思い出します。
越えよう、越えようともがいてみたけど、結局は母のやっていたことと同じことをしている自分がいます。
そしてそれが今はとても幸せに感じるのです。