姫路の城職人による姫路城の弟城・鳥取城!
素敵な本格的西洋建築・仁風閣から鳥取城址へ
鳥取旅の目的・鳥取民藝美術館を大満足で出た後は、
鳥取市街地マップを片手に鳥取さんぽに出かけました。
鳥取民藝美術館はこちら:民藝の世界に浸れる素敵な空間!鳥取民藝美術館
お城に向かって歩いた途中のわらべ館では唱歌・童謡ミュージアムとおもちゃミュージアムを楽しみ、
お城の敷地内では鳥取県立博物館で鳥取のことを学び、
そしてその前の仁風閣では本格的西洋建築の美しさに魅了されました。
その話はこちら:皇太子を迎えるために作られた!素敵な洋館・仁風閣
その仁風閣の入り口のすぐ脇が鳥取城址への入り口となっています。
信長も名城と評した城!
鳥取城跡(久松山)は、世界ジオパークに認定される山陰海岸ジオパークのジオスポットです。
大地が育んだ急峻な地形を持つ山は、防御性の高さや、山頂からの優れた眺めから、「日本(ひのもと)にかくれなき名山」と評され、織田信長は「名城」と評したそうです。
兵糧攻めの舞台!
鳥取城は、歴史的に著名な羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の兵糧攻めの舞台。
秀吉の兵糧攻めとは、天下統一を目指す織田信長が、天正8・9年(1580・81) の2度にわたり、 羽柴 (のちの豊臣)秀吉を総大将とし、毛利方の最前線であった鳥取城を攻めました。
2度目の城攻めの際、籠城した吉川経家に対し、秀吉は織田信長の指示に従い、 圧倒的な兵力で包囲網を敷き、一切の補給路を断つ 「兵攻め」を行いました。
これに耐えた鳥取城ですが、 やがて兵糧も尽き果て城内はちょっと書くのもはばかるようなかなり悲惨な状況に陥ったようです。
吉川経家は、城内で共に戦った部下や城に避難した民衆の命と引き換えに自刃し、城は開城しました。
この戦いは、鳥取の「飢え殺し」と呼ばれ、秀吉の天下統一の布石となる重要なものとなったといいます。
姫路城大天守築城の職人による姫路城の弟城!
江戸時代には姫路城を築いた池田輝政(いけだてるまさ)の孫・光政(みつまさ)が、「国内12番目」の石高を誇る鳥取藩32万石の平山城として拡張整備しました。
整備には、現存する姫路城大天守の築城に携わった職人たちが起用されたことから、「姫路城の弟城」とも呼ばれているそうです。
また、その歴史の長さから、中世から近世に至る多様な城の姿を残しているので、鳥取城跡とその周辺は、日本城郭の歴史を物語る「城郭の博物館」と呼ばれているそうです。
西坂下御門から鳥取城址へ
こちらが西坂下御門です。
鳥取市が無料配布している鳥取城址の冊子の散策ルートです。
この冊子ではお城の正面側にある「吉川経家像」(No.1)を出発して、大手登城路(No.2)を経由してお城を左回りに回るルートを推奨してあるようです。
私は県立博物館方面から仁風館を経由してお城に来たので、本来のコースとは逆回りになってしまったようです。
慶応3年(1867)に創建されましたが、昭和50年(1975)の大風で倒壊、破損し、現在の門が復元されたそうです。
この門をくぐって進んでいくと、右手は坂道、
左手は階段に分かれていました。
階段を昇っていくとぐるっと石垣を回るようにさらに階段があり、
さらに昇ると
桜の大樹が素晴らしい広場に出ました。
この桜の木が城の歴史を物語っています。
二ノ丸跡
ここは二ノ丸跡です。
さっき見てきた県立博物館や、鳥取の市街が見渡せます。
二ノ丸には、江戸時代の前期には藩主が住み、家老などが政治を司る藩主の御殿がありました。
鳥取池田家三代・吉泰(よしやす)の時に御殿が三ノ丸に移されましたが、享保5年(1729)の石黒大火で全体が消失したそうです。
三階櫓などは早くに復旧されたそうですが、御殿は幕末の弘化3年(1846)になるまで再建されませんでした。
二ノ丸は鳥取城を象徴する場所として市民に親しまれているそうです。
昭和32年(1957)に国の史跡に指定され、石垣の修復工事も最初に行われたそうです。
石切場
二ノ丸の背後には岩盤が露出した石切場がありました。
元和5年(1619)ごろから始まった城の大改修の際に、ここから石垣の石材を調達したのだそう。
270年間で段階的に整備!
現在見られる石垣で作られた城(近世城郭)の姿は、天正10年(1582)から嘉永2年(1849)の約270年の間に段階的に整備ました。
特に元和3年(1617)年に入城した池田光政は、それまで5、6万石規模であった城を32万石の居城として一新します。
中ノ御門から続く大手登城路や、天球丸・二ノ丸も整備し、城の主要な部分はこの時に完成しました。
城内には、幕府の規制で三階以上の建物はありませんが、二ノ丸には創建時、最新の建築様式だった層塔型の三階櫓が、山陰地方で初めて建てられました。
層塔型の三階櫓とは、正方形の櫓台を築き、上階を下階より規則的に小さくして積み上げた櫓のことで、初期のものは装飾がないデザインが特長だそうです。
その後の鳥取城は、藩主の生活と藩の役所を担った御殿を中心に増改築されていきます。
江戸時代の終わりには、二ノ丸や三ノ丸が大きく拡張されたほか、三ノ丸の南側には凶作に備えて籾を保管する倉庫群が作られました。
城内の建物は、明治時代に大半が取り壊され、残った石垣も昭和18年(1943)の鳥取大地震で多くが崩れました。
城の建物は残っていませんが、宝扇庵(旧化粧の間)や倒壊後復元された中仕切門が当時の面影を今に伝えています。
復元された鳥取32万石・大手門!
鳥取城の大手門は創建400年を迎えた昨年、令和3年(2021)に復元されています。
私は巡回ルートが逆だったのと、次の予定に急いで博物館近くからバスに乗ってしまったので
復元された大手門に行くことができませんでした。
まとめ
日本100名城にも数えられている鳥取城。
すでに城自体は失われて城址が残るだけですが、兵糧攻めから鳥取32万石大名の居城まで、
その長い歴史と出来事を彷彿とさせるような見応えある城址でした。
石垣の工事などが進んでいて入れない箇所も多くありましたが、
整備が終わって桜が咲く頃に全体像を見にまた来たいと思いました。