病院のベッドの上で聞いた訃報
こちらからの続きです:子供が6歳の時運命の大事故が
高崎の別な病院のICUに搬送されていたパートナーが、怪我が原因の血栓が肺動脈に飛んで詰まり、肺血栓症で亡くなった…。
弟が電話口で伝えるそのニュースを
私は消灯後の病院のベッドの上で聞きました。
身動きできない私とICUで連絡の取れないパートナーの間の連絡を弟がしてくれていました。
「姉ちゃん、落ち着いて聞いてよ」
良いことじゃないなと直感的に感じた、弟の声を今も覚えています。
その夜は一晩中声を出して泣きました。
その翌晩も、またその次も。
今考えると、悲しみを悲しみとして我慢せず
個室で遠慮することなく泣けたのは、
あとあと気持ちを切り替える上でとても大事だったと思います。
ここからの話、娘にこのことを
いつ、どう伝えたのか、
娘はどう受け止めたのか、
などの話もまた機会があればしたいと思います。
絶望の中、ようやく私の手術日が決まり、手術をし、リハビリをし、
これから始まるシングルマザーとしての日常生活に戻れるレベルに回復するまで
3ヶ月ほど入院することになります。
神戸への転居も病院のベッドの上で決めました
手術後、しばらくして神戸の上司が新潟の病院にお見舞いに来てくれました。
そして、東京のオフィスから本社に転勤して神戸で働かないかと勧めてくれたのです。
東京で、保育園に預けて電車で通勤、を毎日ひとりで頑張るより、
転勤して会社の近くに住んで
何ならマイカー通勤だって可能な神戸で子育てした方が
きっと楽だと思うし、仕事もやりやすいと思う、とのことでした。
ちょっと考えてみて、と言って上司は帰って行きました。
事故後、
娘の怪我のこと、じぶんの怪我のこと、転院、手術、パートナーの死、
といろいろなことが立て続けに起こり、すっかり混乱していたので、
これから仕事と子育てをどう両立していくのか、
というところにまで頭が回っていませんでした。
そんな混乱した頭に、上司の勧めが、あ、そうか…ってすっと入ってきたのです。
パートナーが亡くなったということは、
何が何でも東京に居続ける理由もなくなったということでもありました。
何から何までどうなっていくのか先の見えない東京での生活より、
神戸での生活の方が具体的にイメージしやすく、
どちらもやってみなければわからないのなら
迷っていてもしょうがない、決めちゃおう!
こうして直感的に神戸への転勤を決めました。
病院には年末まで入院し、
その後しばらく新潟の実家でお世話になり、
1月中旬に娘とふたり、東京の我が家に4ヶ月ぶりに戻りました。
足には装具、松葉杖の状態で。
その後3月末まで自宅療養となり、その間に神戸へ引越しすることになります。
3月30日。神戸に引っ越し。4月から新生活がスタート。
入院中、一番心配だったのは、
4月から小学校入学の娘の入学先の学校のことが手付かずだったことです。
神戸に転居すると決まったものの、
住居も決まっていなくては病院からでは何のしようもありません。
自宅療養期間に住まいを決め、
入学する小学校を調べ、
住居の契約も兼ねて小学校の下見にも赴きました。
これも装具と松葉杖と共に。
小学校まで子供の足で5分程度のところに新居を決めました。
まだ足が不便だったこともあり、通勤は車ですることに。
ドアtoドアで20分くらいでしょうか。
こうして神戸でのシングルマザーとしての新しい生活が始まりました。