突然やってきた父の介護。神戸⇄新潟の日々が始まる
ショートステイのロング利用
母の葬儀を終え、忌引きと夏季休暇を合わせて少し長めの休みをもらった間にいろいろ調べ、とりあえず父をショートステイとデイサービスを提供している老人介護施設にショートステイのロング利用というのを利用して入所してもらい、神戸に一旦戻りました。
ただこれは一時的な措置に過ぎません。
父は要介護2認定で、杖を利用して自力で歩行は出来、頭もはっきりしていて認知症の症状はありません。
ただ家のことは一切を母に任せきりだったので、料理はもちろん家事はまったく出来ません。
長期的には、どこか他の施設を探して入所するか、訪問介護や看護のサービスをしながら自宅で独居するか、他の方法を探さなければなりません。
ありがたかった会社の自宅勤務のシステム
幸い会社はワークフロムホームという働き方を当時から取り入れていて、月5日、全員が利用することが推奨されていました。
毎週◯曜日、という取り方でも、連続した5日という取り方でも可能でした。
これを利用して、月5日間、新潟で仕事をしながら父の介護をし、また神戸に帰るという生活が始まりました。
父には窮屈だった老人介護施設での生活
最初にショートステイのロング利用でお世話になった施設はとても綺麗で、静かで、家からも近いし、私からしたらとてもいいところに見えました。
ところが父からしたら最悪だったようです。
スモーカーの父にとっては自由に煙草が吸えないことが一番の難点でした。
喫煙自体は禁止されているわけではなく、希望すれば所定の場所に連れて行ってもらい吸えるのですが、職員さんたちも忙しいらしく、そうそう希望通りには連れて行ってもらえない、という毎日で、終いには夜中に抜け出して外で吸う始末💦
ケアマネージャーからは仕事場にそんな報告の電話がかかってきたり、と遠距離介護のもどかしさも経験しました。
もともと自営業で自由に暮らしてきた人です。ずっと同じ部屋の中でじっとしているのも閉じ込められているようで窮屈だったよう。
どうしてもここを出て、自分のうちで暮らしたいという本人の希望を尊重して、ケアマネージャーさんもその方向で話を進めてくれることになりました。
84歳、独居老人生活のスタート
毎日、朝、昼、夕に生活介助のヘルパーさんに来てもらい食事を用意してもらう。
週2で訪問看護の方に入浴ヘルプをしてもらう。
電動で起き上がれるベッドに変更する。
お風呂や廊下に手すりを付ける。
緊急通報装置を付ける。
などなど様々な準備をして、いよいよ84歳の独居老人生活が始まりました。
ヘルパーさんや訪問看護の皆さんの支えもあって、何とか始まった独居生活ですが、いろいろ問題もありました。
両親と離れて暮らしてもう何十年にもなるし、お正月と夏休みなど年に数回会うくらいでは、父のことなど何も知らないと痛感したのは「食事」です。
それまでは母が父の好みを把握して、父が食べそうな物ばかり作ってきたのでしょう。というか好き嫌いの多さにびっくり。
ヘルパーさんが作ったり、私が作ったりしたものはどうも口に合わないらしく、食がすすみません。
車好きの父に免許返上してもらうのも気を遣いました。
父は大の車好き。
母がいた頃は二人で遠出することもしばしばでしたが、独居になり、特に私がいない時に一人で運転して事故でも起こしたら、と心配でなりませんでした。
世間でもちょうどそんなニュースが毎日のように報道されていて、母の事故の相手も80過ぎのご老人でした。
そんな中で時間をかけて説得し、本人にもゆっくり考えてもらい、自ら納得して決めて返上しました。
気に入る食事を作ってあげられなかったことも免許を返上してもらったことも、なんだか父のパワーの源を取り上げてしまったようで、今でも申し訳ない気持ちが残っています。
父は呼吸器と腎臓に持病があり、どちらも月1での診察があったので、毎月の新潟での滞在中に父の病院への付き添いは必ずしていました。
病状や薬のことがわかるだけでなく、担当のお医者さんとも話ができたのはとても良かったと思います。
独居で頑張った父は、母の事故から1年半後、2017年の大晦日に腎機能の低下が原因で亡くなりました。
毎月の神戸⇄新潟生活の中で芽生えた、新潟移住オプション
私は毎日10,000歩ウォーキングするのを日課としています。
会社が健康増進プログラムの一環で、社員全員に活動量計を配布したのがきっかけで、ここ10年ほど続けています。
神戸と新潟の往復生活が始まってからも、仕事と父の介助のすきまや休日に時間を見つけては歩いていました。
いろいろなところを歩いているうちに見つけた、お気に入りのコースがあります。
新潟市内には大きな信濃川がゆったりと流れているのですが、その川沿いのコースです。
やすらぎ堤と呼ばれるその川岸を何回か歩いているうちに、ああ、こんな景色を見ながら暮らすのもいいなぁ、と思うようになりました。
ましてやその時は父がそんなに早く母の後を追ってしまうとは想像もしていなかったので、新潟に来て父の面倒を見ることになるのかも、という思いもありました。
今から4、5年前の話です。
それまでは5年先の自分のことなど、考えたことがありませんでした。
住まいのことも、定年や定年後のことも、すべてがぼんやりとしていました。
そんな事をぼんやり考えながら川沿いを歩くうちに、住むとしたらどこがいいかな、この辺りだといくら位するのかな、など持ち前の妄想が膨らみ、いつの間にか
引退したら新潟に住む!
という決心に変わっていきました。