日本100名城・湯築城跡は貴重でまれな中世の城遺産!
河野氏は400年も伊予国を支配した!
愛媛の旅、4日目は松山城から愛媛県立美術館に行き、コレクション展を楽しみました。
愛媛県立美術館はこちら:珠玉のコレクション!愛媛県美術館でブーダンに出会う!
愛媛県美術館からは市電に乗って道後温泉の湯築城跡に行ってみることにしました。
お堀のそばに市電の駅がありました。
初めてなので緊張しましたが、本数も多いしとても便利です。
道後温泉行きに乗り、一つ手前の道後公園で降ります。
この地図の左側の⑥からめて門という入り口から入ります。
日本100名城と言っても今まで見てきた今治城、大洲城、宇和島城、松山城とは全く雰囲気が異なる城です。
時代が違うのです。
湯築城は中世の城跡、残っていることがとても貴重なのです。
湯築城址はこちら:https://www.iyokannet.jp/spot/1504
湯築城跡とは
この湯築城の説明をどうにかわかりやすくできないかと悩んでいるのですが、河野氏自体が初耳なのでなかなか入ってこない💦
主役は河野氏。
湯築城は中世の伊予国の守護だった河野氏が14世紀後半から戦国期(14世紀前半から16世紀末)まで住んでいた城です。
河野氏は松山の北側、今の北条という地区を本拠に勢力を伸ばした一族です。
1180〜1185年の源平合戦では河野通信が源氏方として功績をあげ、
その功績で鎌倉幕府の有力御家人となり、伊予国の統率権を得ます。
1221年の承久の乱では没落するのですが、通信のひ孫・通有が元寇 (1281年)で活躍し、一族の力が復活します。
1335年前後の南北朝時代、通盛の時に河野郷からこの湯築城へ本拠を移しました。
その後、一族間の内紛などがあったものの、足利将軍家と結びつき、近隣の有力大名、大内・大友・毛利氏などと同盟や縁戚関係を持ちつつ、伊予の守護としての地位を確立しました。
最後の当主通直(牛福丸)は、全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにあいます。
その結果、小早川隆景に湯築城を明け渡すことになるのです。
ここに平安時代末期から戦国期 (12世紀末~ 16世紀末)までの400年にわたる河野氏の伊予支配に終止符が打たれることになります。
※鎌倉時代に時宗を興した一遍上人は、 河野通信の孫にあたります。
湯築城は天守の無い中世の平山城
湯築城は中世の城郭です。
近世の城郭が持つ石垣や天守がありません。
地形を利用して作られた平山城です。
築城当初の14世紀前半は、中央の丘陵部を利用した山城でした。
約200年後の16世紀前半には周囲に外堀を築き、二重の堀と二重の土塁を巡らせた平山城になったと推定されます。
湯築城跡は当時の生活がわかる大規模な遺構
湯築城は、中世末まで伊予の国の政治・軍事・文化の中心を担ってきました。
江戸期には伊予松山藩の管理下に置かれ、明治期からは県立の都市公園や植物園などとして、昭和の時代には動物園としても利用されていたそうです。
昭和62年の動物園移転後、跡地を発掘調査したところ、
中世の平山城として貴重な遺構が残存するとともに、多種多様な遺物が豊富に出土したのだそう。
湯築城跡は、城郭の堀や土塁などの縄張り遺構が良好に残っています。
中世の城跡が残っているというのはとても貴重で稀です。
中世の主要な守護大名の拠点城郭であることに加え、
地域の伝統技法や工法を使った復元などが評価され、平成14年に国史跡になっています。
お城というより遺跡に近い⁈素朴な城跡
この日はお天気も良く、桜もきれいに咲いて、多くの人が休日を楽しんでいました。
湯築城資料館でもらった探検シートを持って、お城をぐるっと一周。
武家屋敷が2つ再現されていて、どちらも内部を展示室にして当時の様子を復元しています。
お堀も素朴で温かみがあります。
石垣も素朴です。
ここからどんどん城の建築スキルが上がって、あの松山城のような石垣が積めるようになっていくのですね。
探検ポイント、探したのですが1つだけゲットできませんでした。
ぐるっと一周終わりかけた頃、大きな建物の前に出ました。
ここにあるとはまったく知らずに来たのですが、正岡子規の子規記念博物館です。
入ってみることにしました。
その様子はまた。
まとめ
愛媛県美術館から市電に乗って道後温泉方面へ。
日本100名城の湯築城跡に行ってきました。
ここは中世の城址で、全体に丸みがあって素朴な遺跡のような場所でした。
桜も咲いて絶好のお花見日和の中、スタンプラリーに参加してぐるっと一周、楽しみました。
御城印はこちら!