現存12天守・宇和島城!伊達政宗の子が藩祖だった!
大洲城から宇和島城へ!日本100名城の宝庫・愛媛!
愛媛への旅、3日目の午前中は朝イチで大洲城に向かいました。
雨の中、しっとりと桜に囲まれた大洲城も素敵でしたが、今まで名も知らなかった大洲の街もとても素敵な街でした。
その話はこちら:こんなすてきな街があったとは!愛媛・大洲の街を歩く!
この日はこの後JRで宇和島に向かい、宇和島城を目指します。
天候は相変わらず雨と残念ですが、どうしても宇和島城は見ておきたいと思いました。
宇和島駅に到着し、駅近くのホテルに荷物を預けて、宇和島城へ。
お城を目指して行くと大きなアーケードがありました。
アーケードの途中からお城への案内が。
ここから行くとお城の北側登城口に行くことができます。
ここから登っていくと途中で緩やかな坂道コースと
長い階段コースに分かれます。
階段コースを進みました。
階段の途中に「井戸丸跡」がありました。
深さ約11メートルの井戸を備えていました。
場内の水場を守るために堅牢な作りになっているそうです。
さらに階段は続きます。
雨は降るし、階段は続くし、ちょっと辛い!
あの上まで行けば終わるのでしょうか。
宇和島城とは
現存12天守の一つがそびえ立つ宇和島城は、慶長 20 (1615)年に伊達政宗の長男、秀宗が入城後、明治を迎えるまで”南海の伊達 “9代の居城でした。
国が定める「重要文化財(建造物)」に指定されている天守は、宇和島伊達家2代藩主の宗利が寛文6(1666)年頃 に建築したもので、寛文天守と呼ばれています。
かつでここには、築城の名手として有名な藤堂高虎が慶長6(1601)年に建築した天守がありました。
幕府には修理の名目で届出をしましたが、宗利は天守台の石垣を含めて全面的に建て直したので、高虎の天守はは絵図でしかうかがい知ることができません。
宗利は天守のほかに櫓や門なども改修しましたが、掘や石垣などの縄張は高虎のものをほぼ引き継いでいるそうです。
明治以降、堀は全て埋められましたが、その名残は今の道路 に見ることができます。
石垣については、高虎から伊達家によるものまで新旧さまざまな石垣が残されています。
これらの縄張がほぼ 当時の姿をとどめており、 城全体も国史跡として指定されています。
伊達宗利築・寛文天守
宇和島伊達家2代宗利が寛文6年(1666) 頃に改修、3重3階総塗籠(そうぬりごめ)式、層塔型の天守です。
改修とはいえ、実際には高虎が岩盤上に建築した望楼型天守を撤去。
石垣の天守台を持つ当時最新式の層塔型天守として新しく造ったと言ってもいいほどだそうです。
各階の装飾性の高い破風や懸魚(げぎょ)などから太平の世を象徴する城として評されているのだそうです。
小さいながらも御殿建築の意匠が随所に見られ、非常に格式を重んじた造りになっています。
華麗さと格式を併せ持つ天守の宇和島城です。
宇和島伊達家の誕生!伊達政宗の子が藩祖だった!
宇和島伊達家は、伊達秀宗(天正19年/1591〜明暦4年/1658)を藩祖とする大名家です。
秀宗は伊達政宗の長男として誕生(幼名:五郎)。
家督後継者として育てられますが、わずか4歳で天下人・豊臣秀吉へ人質として差し出されてしまいます。
しかし、兵五郎は秀頼(幼名:拾丸)の遊び相手として大切に育てられ、6歳元服の時には、秀吉の一字を拝領し て、「秀宗」と名乗ることとなります。
秀吉没後、政宗は徳川に狙したため、秀宗は関ヶ原合戦直前に監禁されますが、徳川方の勝利で危うく難を逃れます。
その後慶長7年(1602) 9月、政宗は12歳の秀宗を家康に拝謁させ、今度は徳川家の人質となるのです。
そして慶長15年 (1610)には、 政宗正室愛姫の子、虎菊丸が徳川秀忠の一字を拝領、忠宗と名乗り、仙台伊達家 となることが決まってしまいます
慶長19年(1614) 11月、家康が豊臣家を滅ぼすために大坂冬の陣を起こすと、政宗・秀宗父子は1万人の兵を率いて徳川方に参戦。
政宗の幕府へ働きかけもあり、冬の陣の功績として、当時幕府直轄だった宇和郡10万石が秀宗に与えられます。
秀忠は伊達秀宗を国持大名格とし、慶長20年 (1615) 3月18日、25歳のとき、「五十七騎」とともに板島丸串城(現・宇和島城)に入城、これをもって宇和島伊達家が誕生しました。
将軍家から10万石を与えられたため、宇和島伊達家は仙台伊達家の分家ではなく、総家と支家という血縁のみのつながりで、明治を迎えるまで9代に渡って宇和島を治めました。
本丸跡
城内では天守をはじめ、 もっとも多くの建 築物が備え付けられた郭となります。
2006年の発掘調査によって、そのほとんどの建築物の跡を確認することが出来たそうです。
また、建築物跡にそって、雨水を排水する石樋も確認することが出来ました。
確認できた石樋は、阿蘇溶結凝灰岩という 阿蘇山周辺でしか採れない特殊な石材を採用した溝で、ほかの郭では見られない精巧な造りでした。
またそれらの溝を上手く連結して雨水を集水、会所桝や暗渠に引き込んで排水する仕組みを作り上げていたそうです。
まとめ
あいにくの天気でしたが、ひと目見たかった現存店主の宇和島城。
宇和島伊達家の藩祖はなんと独眼流・伊達政宗の長男だったとは!
そしてその波乱の人生に驚きました。
この次に行く宇和島市立立博物館が素晴らしかったです。それはまた後ほど。