祈り、畏れ、捧げた!東京国立博物館・古代メキシコ展へ!
古代メキシコの至宝約140件が一挙終結!
月に一度の「佐渡おけさ」体験会で東京に来ています。
その話はこちら:表参道ネスパス・東京での体験会、大盛況でした!
以前からチケットを予約していた古代メキシコ展を見に、
東京国立博物館に行ってきました。
紀元前15世紀から後16世紀のスペイン侵攻まで、
3000年以上にわたって繁栄したメキシコの古代文明。
その中から、マヤ・アステカ・テオティワカンの3つの文明に焦点を当てた展覧会です。
様々な出土品が140点ほど紹介されています。
東京国立博物館はこちら:https://mexico2023.exhibit.jp
古代 メキシコへいざなわれる!
今から1万3,000年以上前。
シベリアからアメリカ大陸に初めて渡って来た狩猟採集民は、
長い放浪を経て大陸を南下、メキシコに到達しました。
数千年かけて彼らは変化に富んだ生態系に適応し、
多様な動植物を食料とした定住生活を営むようになります。
こうして、各地に農耕を基盤とした多くの民族集団が形成されました。
そのひとつが、紀元前1500年頃にメキシコ湾岸部に乗ったオルメカ文明です。
ほぼ同じ頃、メキシコ中央高原やオアハカ地域にも中核的な集落が生まれました。
首長たちは記念碑的な建造物を築き、天文学、暦法、文字が発達し、
やがて都市が登場します。
テオティワカン、 マヤ、アステカは、メキシコの古代都市文明の代表的な存在です。
人身供犠
人間を生贄とする古代メキシコの慣習は、
「万物は神々の犠牲により存続しており、
自らも他者のために犠牲を払うべき」
という倫理観に基づくものだったのだそう。
斬首や心臓の剝奪などの残虐な手法は、国家の覇権の誇示にも利用されたといいます。
三代ピラミッドを要する巨大計画都市・テオティワカン
紀元前100年頃。
メキシコ中央高原の海抜2,300mほどの盆地に、
紀元後550年頃まで栄えたテオティワカン文明が興ります。
約25k㎡の都市空間に、 最大10万人ほどが住んでいたとされます。
その民族、 使われた言語や文字などはわかっておらず、謎が多いのだとか。
テオティワカンは、
当時の人々が信じていた世界観にのっとって 建物の配置が定められた、
一大宗教都市だったとされます。
中心地区には死者の大通りを中心に、
ピラミッドや儀礼場、宮殿などの建造物が整然と並んでいます。
近年の調査により、
最盛期にはメソアメリカのほぼ全域に影響力をもった国際都市であり、
各地から人や物が集まる、活発な多民族国家の都であったことが明らかになりつつあるそう。
マヤ 都市国家の興亡
マヤ地域に、碑文や王墓を伴う王朝が明確に成立したのは、1世紀頃とされます。
その後、250年から950年頃にかけて、
ピラミッドなどの公共建築、集団祭祀、精緻な層を特徴とする都市文化が花開きました。
熱帯低地のマヤ都市では食物の長期保存ができず、
権力による経済の統制や、強力な軍隊の保有は困難でした。
その代わりに、
建築活動や集団祭祀による共同体の結びつきを維持することが重要視されました。
祭祀空間を築き、暦に沿って祭祀を執り行なうことは、王の主要な役割であり、
そうした王の功績を顕彰する碑文の存在が、王権のよりどころでした。
マヤ地域が政治的に統一されることはなく、
交易や外交使節の往来などの友好的な交流、時には戦争による覇権争いを通じ、
勢力的に対立する都市国家が興亡を繰り返しましたのだそうです。
世界観と知識
マヤの人々にとって、 人生や社会の出来事は
神々の行ないや天体、山、洞窟などの自然界の事象と深く結びついていました。
天体の動きを観察し、それに基づく精緻な暦を作り、
都市の広場や周辺に点在する聖なる場所で儀礼を行なうことは、
世の中に秩序を与えるために必要と考えられました。
日本や中国の暦に吉凶の日があるように、マヤの暦も人々の運勢に関わっていたとのこと。
また、人々の行ないは、神や先祖の事績を再現するものと考えられ、
優れた文字体系を使って書かれた碑文には、
王の業績などが正確な日付とともに記録されたそうです。
チチェン・イツ マヤ北部の国際都市
9世紀にはマヤ低地南部の多くの都市が衰退し、
マヤ文明 の中心はユカタン半島北部に移ります。
この地域に特徴的である、地下水系とつながる大地の陥没穴はセノーテと呼ばれ、
貴重な水源かつ信仰の対象として人身供犠を含む儀礼が行なわれました。
10世紀頃にはチチェン・イツァが、マヤ地域で最大の都市になりました。
住民の大半はマヤ人でしたが、
トゥーラなどメキシコ中央部を含むメソアメリカ各地との交流を進め、
チャクモールと呼ばれる像やドクロを多く描いた基壇など、 各
地の文化要素を取り入れたとみられているそうです。
テノチティトランの大神殿 アステカ
13世紀。
メソアメリカ北部からメシーカ人らナワトル語を母語とする人々が、
メキシコ中央高原に到来しました。
その後、彼らが建国したアステカ王国は政治、経済的覇権をふるいました。
都である テノチティトランの聖なる力が、
他者に激しい畏怖心を抱かせたのだそうです。
まとめ
マヤ、アステカ、テオティワカンなど、
聞いたことはあっても全く知識のなかった古代メキシコ。
火山の噴火や地震、干ばつなど厳しい自然環境の中、
神を信仰し、畏れながら、王と王妃の墓、大神殿、3大ピラミッドなど
壮大なモニュメントを築いた人々。
独自の世界観とその造形美に、古代メキシコ文明の奥深さを感じました。
もう少し勉強して、いつか本物を訪れてみたいと思いました。
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