佐渡おけさとの出会い
私が50代で始めたことは、ショートヘア、洋裁、弾丸一人旅、ウォーキングなど色々あるのですが…、
その中で自分でも驚くのが「佐渡おけさ踊り隊」の活動です。
自ら発信して人と関わり人を巻き込む、という私がもっとも苦手な分野への挑戦だったからです。
2019年にはクラウド・ファンディングにも挑戦し、目標の125%を達成することができました。
コロナ禍の今こそ活動延期が続いていますが、
「佐渡おけさ踊り隊」はオンゴーイングの活動なのでこれからもお話しすることが多くなると思います。
「佐渡おけさ踊り隊」立ち上げの直接のきっかけは、
2017年の夏、「佐渡おけさ」が絶滅寸前にあることを目の当たりにしたことでした。
でもそれ以前に、そもそもの佐渡おけさとの関わりや出会いについてお話ししておこうと思います。
夏の思い出 原体験としての「佐渡おけさ」
新潟は母の故郷でもあり、
私が高校生の時に(私と弟は東京に残し)両親が東京から移り住んだ、
私にとっても第二の故郷のようなところです。
子供の頃は母の里帰りにくっついて長い夏休みを新潟で過ごしました。
当時「新潟まつり」は8月の後半(20日ごろ?)に開かれていました。
台風の季節と重なるということで、今は時期をずらして8月最初の金土日に開催されています(2020年と今年はコロナで中止)。
昭和30年から続くこのお祭りは金曜の夜の「大民謡流し」で幕開けし、
土曜日はパレートや住吉行列、
日曜日には花火大会と盛り沢山。
新潟まつりの民謡流しは1万5000人もの人が参加する、国内最大級の規模を誇ります。
https://niigata-kankou.or.jp/event/1893
この民謡流しで「佐渡おけさ」は「新潟甚句」と共に交互に踊られてきました。
子供の頃から「佐渡おけさ」に興味があったり好きだったわけではないのですが、
子供心にかっこいいなぁと思った記憶があります。
きっと母の影響です。
というのも、母の実家は新潟市の中心部で老舗のお菓子屋さんで、
その従業員さんたちもこの日は揃いの浴衣を着て民謡流しに参加します。
民謡流しの前になると何となく雰囲気がバタバタそわそわとせわしなくなって、
皆さんお店の奥で浴衣に着替えて、笠を脇に抱えていそいそと出ていくのです。
中でも背が高くてかっこいい女性・Yさんの「佐渡おけさ」を母はいつも楽しみにしていました。
そんな光景を毎年見ていたので、「佐渡おけさ」そのものの思い出というより
「佐渡おけさ」を踊りにいく人たちや、
それを楽しみにしている母の高揚感のようなものを子供ながらに感じていて、
それが原体験となってその後の「佐渡おけさ」との関わりにつながっていったのかもしれません。
ハマったきっかけは家族での佐渡旅行 (1998年5月)
そんな母の実家での民謡流しの記憶と、
民謡を歌うのがとても上手な叔父がいて、
親戚が集まっての宴会でいつもリクエストされては「佐渡おけさ」を歌っていたのをよく覚えている、
というのが子供の頃と私と「佐渡おけさ」との関わりでした。
それが一変したのは1998年5月の連休に、私たち親子3人と新潟の両親の5人で佐渡に旅行に行った時でした。
泊った旅館での夕食後、
大きな宴会場で「佐渡おけさ」の歌と踊りのご披露があるということで、
私たち5人も観に行きました。
それまでじっくり佐渡おけさの踊りを観たことがなかったので、
こんな優雅で素敵な踊りだったのだと改めて気づき、途端に興味が沸いたのです。
残念ながらその時の写真は残っていないのですが、
各テーブルから1名ずつ舞台に上がって、踊り方のご指導をしてくれるというので、
私がうちのテーブル代表で舞台に上がりました。
教えていただき踊ってみると、その難しいこと!
足も手も思うように動かないし、動かすタイミングも独特で全然優雅になんて踊れません。
でも奥深くて難しい動きに魅了されました。
難しいけど楽しい!あんな風に優雅に踊れるようになりたい!
「佐渡おけさ」にハマった瞬間でした。
東京で「佐渡おけさ」の先生を見つける
佐渡旅行の後、私たち家族は東京に戻りました。
私の「佐渡おけさ」熱は冷めていませんでした。
どうにかして「佐渡おけさ」を習えないものか考えました。
1998年ごろ、当時はまだ今のようにインターネットで簡単に検索できるような時代ではありません。
個人で携帯電話を持つようになり始めた、くらいでしょうか。
実際、どのようにして辿り着いたのか記憶が定かではないのですが、
おそらく世田谷区の広報誌とかだったのだと思います。
同じ区内の民謡教室で「佐渡おけさ」も教えていらっしゃるという先生を見つけることができました。
車で20分もかからないような場所で、しかも佐渡おけさを教えてくれる先生と出会えるなんて、今思えば奇跡のような発見です。
早速連絡して、平日の夕方の練習会を見学させていただくことにしました。
そのS先生は新潟の十日町のご出身で、一緒に練習会に参加されているご主人は佐渡のご出身とのこと。
これも奇跡のような話です。
民謡、民舞の会なので、
「佐渡おけさ」だけを踊るわけじゃないけど、
それでもよかったらどうぞお仲間に入ってください
と言ってくださいました。
毎週平日の18時か18時半からだったでしょうか、2時間程度のお稽古をしているそう。
会社帰りに急いで娘を保育園に迎えに行って直行すれば間に合います。
コンビニで娘のご飯を買って、毎週その区の公民館に通うことにしました。
会の皆さんもとっても良くしてくれました。
娘にとってはおばあちゃんのような方々ばかりなので、一緒に連れていくことをむしろ喜んでくださいました。
会場も大きな畳の部屋なので、娘を転がしておいても安心です。
転がしておくと誰かがいつも娘をかまってくれて、娘もそんな皆さんになつく、なつく。
娘も毎週ここに行くのが楽しみになる程になりました。
このS先生の会で、佐渡おけさ、相川甚句、出雲崎おけさなどの新潟民謡だけでなく全国の民謡、そしててんぐさの花などの民舞も仲間に入れてもらって教えていただきました。
佐渡民謡の指導は佐渡出身のご主人がしてくださいました。
ご主人は背が高くキリッと踊る男踊りはさすが本場、というほど格好よく、
東京で佐渡の方に佐渡おけさを教えていただけるなんて本当に奇跡だったとつくづく思います。
S先生の会には3年くらいお世話になったでしょうか。
その間、発表会などにも参加させていただき、能登麦や節という演目では
娘も衣装を着て笠を回して踊りました。
佐渡おけさでは銀座や上野でのパレードにも参加させていただきました。
そんなS先生の会ともお別れする日がやってきます。
2001年9月、我が家にとっては天下分け目の交通事故に遭遇、入院。
そして2002年に神戸に引っ越したからです。
やはり関西は文化圏が違いました。
東京のように「佐渡おけさ」を踊る機会は全く無くなってしまいました。(つづく)