絶滅寸前 新潟まつりでの佐渡おけさ
神戸転居後、佐渡おけさは年1回のお楽しみ 新潟まつりの民謡流し
せっかく東京で「佐渡おけさ」を教えてくれる先生の元で楽しい日々を送っていたのに、
2001年9月の交通事故でその先の人生が全く変わってしまいました。
2002年3月に神戸に引っ越した後も、
「佐渡おけさ」を続けたくて、
民謡の会や先生を探してみるも見つからず。
やはり東京・新潟圏と関西では文化圏が違いました。
それ以来、毎年、新潟まつりに合わせて娘と新潟の両親の元を訪ねては
民謡流しで「佐渡おけさ」を踊ることが唯一の私の楽しみになりました。
「佐渡おけさ」を踊れる人が減り、民謡流しのほとんどが「新潟甚句」一色に
私が子供の頃見ていた民謡流しは東堀と西堀で行われていて、
参加する全員が佐渡おけさと新潟甚句を交互に踊っていました。
民謡流しに参加している多くの企業の人たちです。
その人たちに「新潟甚句」と「佐渡おけさ」を両方覚えてもらって両方踊るというのが難しくなっていきます。
「佐渡おけさ」はそれだけ踊るのが難しいのです。
なので「新潟甚句」だけ踊る団体がほとんどになっていきました。
国内最大規模を誇る新潟まつりの民謡流しは、
市の中心部の通りを締め切って大々的に行われていますが、
その中でもメイン会場となる東大通から萬代橋も「新潟甚句」一色です。
特に萬代橋の上は人気で、毎年希望者、希望団体が殺到し、希望が通らず他の会場に割り振られることも多々あります。
「佐渡おけさ」会場はどんどん端っこに追いやられる
このように「佐渡おけさ」を踊る人が少なくなるにつれ、中心部は「新潟甚句」が占めていき、
「佐渡おけさ」会場は古町→万代シティ→万代町とどんどん端っこに追いやられていきました。
それでも私にとっては唯一「佐渡おけさ」が踊れる機会です。
古町でも、万代シティでも、万代町でも、場所が変わるたびに追いかけて、飛び入り参加で踊っていました。
「今年は場所が○○に変わるらしいよ」
そんな情報は母が前もって調べてくれていました。
私が佐渡おけさを踊るのが好きだったみたいです。
踊っているのを見ていられるのも恥ずかしいので、
来なくて良いからね、と言っておいても、
自転車で会場に来てはこっそり見ていたようです。
見つかると怒られると思って内緒にしていました。
2017年夏 風前の灯となった佐渡おけさを目の当たりにし強まる危機感
そんな夏がいくつか過ぎ、2017年の夏の民謡流しの日がやってきました。
2017年の夏休み、娘の大学のお友達Yちゃんが民謡流しに合わせて遊びに来てくれることになっていました。
せっかくなので一緒に踊って新潟の夏を楽しんでもらおうと浴衣を用意して迎えました。
いつもの民謡流しの楽しみ方はこんな感じです。
まず「佐渡おけさ」と「新潟甚句」を両方踊れる会場で踊る
この頃には会場は万代町と言って、1万人以上もの人が「新潟甚句」だけを踊るメインの会場の一番端っこの会場です。
民謡流しも終盤に近づいた頃場所を移動して、萬代橋の上の団体の後ろに飛び入り参加する。
やはり萬代橋の上で踊るのはとても気持ちいいのです。
何年か前までは民謡流しの最後に信濃川で花火が上がり、
それが萬代橋の上からとてもよく見えたのですが、花火は今は無くなってしまいました。
Yちゃんを迎えたこの日もそんな予定にして
万代町の佐渡おけさ会場に娘とYちゃんと3人で向かいました。
万代会場は一番端っこ、とはいえ、メインの東大通から分かれた通りです。
五叉路の交差点で東大通とは繋がっているはずなのに、交差点のそばに踊り手がいません。
そこからずいぶん離れたところに浴衣を着たいくつかの団体が見えました。
踊る人が少な過ぎて、交差点の近くまで踊りの輪が届かないのです。
毎年、佐渡おけさ会場が縮小しているなとは感じていましたが、
この時ばかりは本当にその人の少なさに驚きました。
この通りは電灯も暗いので、全体が寂しい雰囲気に包まれています。
「風前の灯」
そんな言葉がぴったりでした。
このままだと新潟まつりでの「佐渡おけさ」は無くなってしまうだろうな…。
なんとかしなくては!と思った瞬間でした。
その思いが翌年の「佐渡おけさ踊り隊」結成へと繋がっていきます。(つづく)