傷ついた神戸は傷ついた母娘をやさしく受け入れてくれました
こちらからの続きです:娘のサポートで2年限定で東京へ
娘の小学校入学に間に合うよう、東京から神戸に引っ越しました。
新しい土地での生活、これから始まる娘の小学校、その前に学童保育、そして私は緊張する本社勤務。
それぞれに、それぞれのプレッシャーを抱えた新たなスタートです。
2002年のことでした。
当時、阪神淡路大震災から7年経っていましたが、建て替えが住んで新しい街並みがかえって被害の大きさを伝えていました。
この神戸で娘の小学校→中学→高校→予備校1年時代の13年間をふたりで過ごし、娘が東京の大学進学で上京した後は、私一人で4年間過ごしたので、私は計17年住んだことになります。
この間のそれぞれの想い出、出来事などはまた追って子育ての話としてお伝えしていけたらと思います。
娘の夢 ペットショップ→動物の研究者→世界の子供を助ける→医者 そして看護師へ
娘は小さい頃から動物が大好きで、
保育園から小学校の低学年までは興味の対象は犬で、ペットショップ屋さんになるのが夢だったのですが、それから対象が動物へと広がり、アマゾンの奥で動物の研究者になるのが夢でした。
中学に入ると動物への興味が人間、特に子供たちへと変わっていきました。
社会科の授業で世界の子供の貧困や病気について学んだのがきっかけのようです。
世界の子供を助けたい、という夢に変わって行きました。
浪人は1年までという決めごとで、大学は医学部を受験、2年チャレンジしました。
2年目の挑戦のとき、もしダメだった時はどうするかを話し合い、同じ夢を看護師で叶えたいということで看護大も受験しました。
あいにく医学部にはご縁がなく、東京の看護大へ進みました。
娘が看護学生になって私もたくさんのことを知りました。
とにかく学ぶことが幅広く奥深い。実習もたいへん。
学生らしい遊びもほとんどすることなく勉強、勉強の日々でした。
そんな学生時代を経て、2019年4月、娘は東京の総合病院で看護師として働きはじめました。
娘の就職1年目の出来事 そして東京へ そして新潟へ
夢と希望と不安で始まった看護師1年目。
4月、5月と過ぎていく中で、娘の様子に異変を感じるようになりました。
ちょうどその頃、私は娘の就職した病院で手術入院していたのですが、私の部屋に来てはシクシク涙を流す、というようなことがよくあったのです。
これもいずれ詳しくお話しできればと思いますが、私は股関節に病気が見つかり、人工股関節に置換する手術をする必要がありました。
この時、私は職場も住まいも神戸、娘は東京在住でしたので、神戸で手術とも考えたのですが、危ない手術ではないにせよ、もし何かあった場合、神戸にはいざとなった時に頼る身内がいません。
また何かあった時、娘や弟夫婦に神戸に来てもらうのもたいへんです。
なので万一のことを考えて、娘も弟夫婦もいる東京で、しかも娘の働いている病院で手術をすることに決めました。
ちょうど平成から令和に変わるとき、4月末から5月にかけての10連休を利用して手術入院していたのです。
5月の連休明けに私は退院して神戸に戻りましたが、その後も出張等で東京に来て娘に会うたび、その落ち込んだようなどんよりした雰囲気が気になって仕方ありませんでした。
5月の頃はこれが5月病?なのかなとも思ったのですが、さすがに6月に会った時にそれがさらに悪化。
失敗が失敗で済まされない仕事、真面目な性格、コツコツじっくり派ゆえ最初は周りからの理解が得られにくい、などいろいろな要素が重なって顔は青白く、目は涙目、あの明るい笑顔が全く消えてしまっていたのです。
これは何か手を打たないと取り返しのつかないことになるかもと思い、早速上司に相談。
東京のオフィスに転勤を願いでました。
人より時間がかかるからと準備のために朝早く出社、仕事が終わって遅く帰宅しても、毎日の振り返りのための勉強、そして明日のための準備の勉強、と体力的にも大変です。
せめて食事や掃除洗濯など、生活面で近くでサポートしようと思ったのです。
娘のアパートと100歩しか離れていない同じ町内に空いている部屋を見つけました。
2年限定の賃貸という条件の物件でした。
2年後といえば私も定年退職という一つの区切り。
娘のサポートも無期限というよりは2年と区切って支えてあげるのがちょうどいいかなと思いました。
おかげさまで娘は時間と仕事への理解が深まるにつれ元気を取り戻し、職場の周りからの理解や信頼も得られるようになり、今は看護師3年目として頑張って働いています。
この東京のアパートの契約条件が2年限定だったので、その期限が7月初旬と近づいています。
このアパートを引き払ったら、いよいよ新潟へと完全移住するつもりです。