シーボルトが残した功績って、何?そして驚きの子供たちの話!
シーボルト3部作で、日本をヨーロッパに紹介した!
シーボルト記念館で知ったシーボルトの偉業が凄すぎて、まだ書いています。
最初はこちらから:初めて知る史実の数々!シーボルト記念館が素晴らしい!
シーボルトは帰国後、彼の日本での収集品のほとんどが保管されることになったオランダのライデンに住居を構えました。
その日本での研究成果を「日本(ニッポン)」、「日本植物誌」、「日本動物誌」などの著書にまとめ、西洋諸国に広く日本のことを紹介しています。
特に「日本(ニッポン)」は、現在でも学術的な評価が高いシーボルトの日本研究の集大成として知られています。
日本の地理、歴史、宗教、工業、商業など他分野にわたる調査・資料と、日欧の既存の資料をまとめたものになっています。
研究とコレクションをもとに書き記された「日本」はベストセラーになり、ジャポニズムブームを引き起こしました。
特に植物への関心が高かったシーボルトは、10000点以上の植物標本を収集し、絵師の川原慶賀による植物画なども残しています。
単に収集しただけではなく、研究者として日本植物の分類にも貢献しました。
ユリ、アジサイ、ツバキなどを持ち帰り、ヨーロッパの園芸植物に多様化をもたらす先駆けともなったそうです。
日本で活躍した二人の息子のこと
アレクサンダー
日本を追放処分となったシーボルトは48歳のときにオランダで結婚しています。
お滝やイネと別れて17年後の遅い結婚でした。
そして、日本が開国し追放令が解除されると、長男アレクサンダーを伴って来日。
30年ぶりにお滝とイネに再会します。
父の再来日に同行をしたアレキサンダーは、父の帰国後も日本に残りパリ万博の使節団に随行しています。
その行程では渋沢栄一など後の明治政府を支える傑物たちに語学や西洋事情を教えるなと交友を深めたそうです。
アレクサンダーはその後、外務大臣 井上馨(いのうえ・かおる)の秘書を務めるなど 明治政府の外交に携わり40年余りに渡って活躍しました。
ハインリッヒ
また、父親の影響を受けて日本に憧れていた次男ハインリッヒも来日します。
兄とともに各国との条約改正やジュネーブ条約への調印を経た日本赤十字社の設立。
大国ロシアとの緊張を高める中でヨーロッパ諸国でのロビイスト活動を展開し戦費調達、そこからに繋がる大戦への勝利を得るなど外交面で大いに活躍をしました。
一方、遺跡の発掘などに取り組み、大森貝塚など様々な遺跡を発掘。
著書『考古説」では日本で初めて「考古学」という言葉を使ったといわれています。
イネは、この二人の弟の支援を受けて東京で開業、宮内省御用掛(くないしょうごようがかり)になるなど産科医として活躍しました。
次男ハインリッヒは日本人女性、 岩本はなと結婚します。
その長男誕生の際にはイネが赤ん坊をとりあげているんだとか。
父親に導かれて、それぞれ活躍の道を見出した子供達がいたとは!
シーボルトのお弟子さんたち
シーボルトのお子さんたちを書いたので、お弟子さんたちも記録しておきたいと思います。
江戸時代後期を代表する蘭学者・高野長英
高野長英(たかのちょうえい)は1804年、陸奥国水沢の武士の家に生まれます。
16歳になったころ、家族の反対を押し切って単身長崎へ向かいます。
そこで鳴滝塾に入門し、西洋医学を学びます。
非常に優秀で、塾頭として門下生の束ね役になっていたそうです。
1828年、シーボルトが帰国時に地図を持ち出し追放となったシーボルト事件では、他の門下生とともに厳しい詮議を受けるところでしたが、何とか逃れ、しばらくの間身を隠していました。
1830年に江戸に医者として現れ、開業。
1832年には『医原枢要(いげんすうよう)』という生理学書を出します。
幕末の日本において開国を支持していました。
幕政を批判して投獄されますが、脱獄し、薬で顔を焼いて人相を変えながら転々と逃亡生活を続けていたとか。
1850年に江戸に舞い戻って潜伏していたところを捕らえられ、自ら命を絶ちました。
何という壮絶な人生!
シーボルトの娘イネを教育・二宮敬作
二宮敬作(にのみやけいさく)は1804年、伊予国(愛媛県)の農家の家に生まれます。
16歳のときに医者になるべく長崎へ留学。
武士でも医者でもない家の生まれでしたが鳴滝塾に入門し、シーボルトの江戸参府にも同行し、師から多くを学びます。
シーボルト事件の時は、変装して小舟に乗り込み、追放され長崎を去るシーボルトを見送ったのだそうです。
敬作はシーボルトから、イネ(シーボルトの娘)の教育を任されました。
敬作は郷里へ戻り、町医者となって働くかたわら、イネに学問を授けました。
シーボルトが再び日本にやってきたとき、敬作は再開を果たしたそうです。
年後の1862年、長崎で59歳の生涯を終えています。
幕府医師に登用された名医・戸塚晴海
戸塚静海(とつかせいかい)は1799年、遠江国(静岡県)の医者の家に生まれます。
蘭学を学ぼうと、17歳で江戸に渡り、25歳の時に長崎へ出て鳴滝塾に入門。
外科医としての腕を磨きます。
シーボルト事件の際、他の門下生とともに捕らえられ、数か月間幽閉されています。
シーボルトが追放された後、長崎で医学を教えていましたが、やがて江戸へ。
薩摩のカリスマ藩主・島津斉彬から信頼され、薩摩藩の藩医を務めるなど、鳴滝で身につけた医学の技術を存分に発揮していきます。
斉彬が亡くなった後、幕府の官医に登用され、第13代将軍徳川家定の侍医に。
法印(ほういん)という最上位の称号を与えられます。
その後も、江戸の医学のために尽力。
1876年(明治9年)、78歳でこの世を去っています
お玉ヶ池種痘所設立に尽力・伊東玄朴
伊東玄朴は1801年、今の佐賀県・備前国に生まれます。
由緒ある家に生まれますが、玄朴が生まれた頃は貧しい農家でした。
玄朴は佐賀藩士・伊東家の養子になります。
23歳で佐賀藩医に弟子入りし、その後鳴滝塾に入門し、長崎で医学を学びます。
1826年にはシーボルトの江戸参府に同行し、玄朴はそのまま江戸に残りました。
江戸で学ぶ蘭学者たちと交流を深めたそうです。
1831年には佐賀藩医として鍋島家に召し抱えられます。
伊東玄朴は種痘の普及に尽力したことでも有名です。
種痘とは天然痘の予防接種のことです。
原木は長崎からもたらされた牛痘苗を用いた接種に成功、1858年に神田にお玉ヶ池種痘所を設立します。
同じ頃前述の戸塚晴海と共に幕府奥医師となり活躍しました。
1871年(永治4年)72歳でこの世を去りました。
まとめ
シーボルト記念館で知ったシーボルトの偉業が凄すぎて、記録するのに4日間もかかってしまいました。
色々驚いたことばかりでしたが、中でも一番驚いたのはオランダの息子さんたちの日本との関わり、というか日本での活躍です。
井上馨の秘書って!大森貝塚の発掘って!意外なことばかりで、本当にシーボルト博物館、面白かったです。
ますますライデンのシーボルト記念館に行きたくなってきました。
ライデンのシーボルト記念館はこちら:https://www.sieboldhuis.org/ja