自然科学調査なのか?スパイなのか?シーボルト事件!
シーボルト記念館、サスペンス劇場?
3月27日に新潟から神戸にFDAが就航して、早速お試し搭乗してきました。
ちょうど神戸から乗り継げるスカイマークの長崎便があったので、久しぶりに大好きな長崎へ。
その長崎でシーボルト記念館へ初めて行ってみました。
そしてそれがとっても面白かったのです。
書きたいことが沢山ありすぎて3回シリーズになってしまいました。
1回目はこちら:初めて知る史実の数々!シーボルト記念館が素晴らしい!
2回目はこちら:シーボルト、出島に着任!鳴滝塾、その残した偉業!
いや、3回目で終わるかもまだわかりませんが、とりあえず昨日の続きを。
シーボルトの愛した楠本たき 父の医学の道を目指した娘イネ
シーボルトは来日後1カ月の文政6年(1823)8月、出島通いの遊女とされている其扇(そのぎ)と呼ばれる日本人女性・楠本滝と結ばれます。
シーボルトはたきのことを「おたくさ(おたきさん)」と呼んでいました。
2人の間には、4年後、娘のイネも生まれます。
シーボルトとたきは、その後悲劇的な別れを迎えることになるのですが、のちにシーボルトがまとめた『日本植物誌』で、シーボルトが好きだったアジサイの花に滝の名前をとって学名「ヒドランゲア・オタクサ」と命名したことが知られています。
また、娘のイネは、シーボルト帰国後、門弟の石井宗謙、二宮敬作、ポンペらに医学を学び、日本初の西洋産科女医となって活躍します。
イネは長崎や東京で開業し、明治6年(1873) 明治天皇の若宮が誕生するときには、宮内省御用掛となり、出産に立ち会ったそうです。
明治36年(1903) 東京で亡くなりました。
シーボルトの江戸参府
シーボルトは、1826年(文政9)オランダ商館長の江戸参府に同行しました。
「江戸参府」とは、オランダ商館長が江戸城へ出向いて将軍に贈り物を差し出し忠誠を誓うというものでした。
当時の日本では、外国人が日本の国を自由に旅行することを禁止されていたので、この旅に同行できたのはシーボルトにとって日本各地の地理や動植物、産業、風俗習慣などを実際に見て、調査する絶好の機会でした。
商館長スチューレルに同行したのは、日本人通詞のほか、シーボルトの私的な使用人として塾生の湊長安、高野長英、二宮敬作らも加わりました。
また、風景や風俗の記録係として絵師の川原慶賀も同行し、各地の風物をスケッチさせました。
また、動植物を収集したり、オオサンショウウオのつがいを求め、これをオランダまで持ち帰ったというエピソードも残されています。
江戸の定宿は日本橋本石町の長崎屋で、ここではさまざまな人物と会ったそうです。
中でも国情に詳しい北方探検家・間宮林蔵の上司最上徳内に会うことは重要でした。
シーボルトは作成した蝦夷(北海道)、樺太(サハリン)の地図を譲ってほしいと頼んだそうです。
シーボルトは樺太が「島」かどうか確認したかったと言います。
日本地図を異国人に与えることは国禁でした。
最上は譲るわけにはいかないが、一度お貸ししましょう。
ただし、このことは絶対に他言しませぬように…と答えたそうです。
何かドキドキしますね。
逆に、シーボルトに会いたい人物も多数訪れたそうです。
幕府の御書物奉行、高橋作左衛門景保は、何度も長崎屋に出向きました。
伊能忠敬らが作成した日本地図の北部海岸に不明な個所があり、それをシーボルトの持つクルーゼンシュテルンの『世界一周記』で確認したかったのだそうです。
高橋は国防の観点から、『世界一周記』を譲ってくれれば、日本地図を模写して渡すと答えたとか。
その地図は、北方は樺太、千島にまで及ぶ日本沿海の測量図でした。
こうやって国外追放へと伏線が引かれたのですね…。
禁制品の持ち出しにより、国外追放に「シーボルト事件」
文政11年(1828)、日本での任期を終えたシーボルトは、帰国の船が出るのを待っていました。
しかし、彼が乗る予定だった船の出航は、長崎を襲った暴風により延期されます。
出航の延期によって、当時、国外への持ち出しが禁止されていた日本地図やその他の禁制品を多数、シーボルトがオランダに持ち帰ろうとしていたことが発覚してしまうのです。
同年11月、長崎奉行所はシーボルトが所持していたそれらの禁制品を没収。
シーボルト自身も出島に拘禁され、厳しい取り調べを受けることになります。
調べにあたって、シーボルトは協力者に罪が及ぶことを避けるため、それらの禁制品を誰から、どのように入手したかといったことについては明かさなかったそうです。
文政12年(1829)12月、シーボルトは国外追放を申し渡されたため、滝や娘のイネと別れ帰国しました。
この一連の騒動が「シーボルト事件」です。
ふたたび日本に来る
オランダ商館長の願い出により国外追放を解かれたシーボルトは、安政6年(1859)、オランダ貿易会社顧問の肩書で、再び来日を果たします。
帰国後、別の女性と結婚していたシーボルトは、その女性との間に生まれた長男・アレクサンダーを伴っていました。
長崎に着いたシーボルトは、滝やイネ、そしてかつての門弟と再会。
鳴滝の住宅は人手に渡っていましたが、これを買い戻して長崎における日本研究の拠点としました。
文久2年(1862)、シーボルトは再び日本を離れますが、彼の日本研究は1866年にミュンヘンで70歳で死去する直前まで続けられました。
そのことからもシーボルトの日本に対する想いや情熱をうかがい知ることができます。
また、国内においては、鳴滝塾門下生や、シーボルト滞在中に彼の知見にふれた学者などにより、西洋の先端科学に対する関心が大いに高まることになりました。
現在、シーボルトが収集した日本コレクションの多くは、オランダのライデン国立民族学博物館など、ヨーロッパ各地の博物館に収蔵されています。
まとめ
やはり3回でも書ききれませんでした!シーボルトの生涯が面白すぎる。
シーボルト記念館にもっと早く来なかったことが悔やまれますが、今回来れたことに感謝しかありません。
「おたくさ」というお菓子があって、私の長崎土産の恒例です。
オランダのシーボルト博物館を見つけました。
いつか行きたいと思います。