初めて知る史実の数々!シーボルト記念館が素晴らしい!
FDA新潟―神戸便就航!神戸経由で長崎へ!
3月27日にFDA(フジドリームエアラインズ)が新潟―神戸便を就航しました。
早速お試し利用、神戸でスカイマークに乗り換えて長崎に行ってきました。
旅の様子は改めてご紹介するとして、今日は今回の旅の1番の収穫、「シーボルト記念館」の記録を留めておきたいと思います。
長崎には日本全県めぐりの1周目、最後から2番目の県として行って以来、ことあるごとに何度も訪れています。
1周目最後から2番目の旅の様子はこちら:50代で始めたこと 1泊2日の弾丸旅行にハマる
長崎ではあちこち訪れていますが、このシーボルト記念館は今回初めてでした。
そしてそれが本当に素晴らしかったのです。
日本に西洋医学を伝えた、程度の知識しかなかった自分が申し訳ない!
それほど多くのことを教えてくれました。
シーボルト記念館とは
江戸時代の日本に西洋医学や植物学を伝え、科学的な総合調査に基づいてヨーロッパに広く日本を紹介したシーボルトを記念した博物館です。
シーボルトのフルネームはフリップ・フランツ・フォン・シーボルト。
1796年(寛政8)、バイエルン王国ヴォルツブルグに生まれました。
(バイエルン王国は今はドイツ連邦の1州ですが、1806年に王国となり、1871年のドイツ帝国成立後もその中に入りながら王国として存続。1917年のドイツ革命で王政が倒されて、それ以降はドイツの1州となっています。)
このシーボルト記念館は、日本の近代化に貢献したシーボルトを讃えるために長崎市が1989年(平成元)に開館しました。
シーボルトが開いた鳴滝塾があったシーボルト宅跡は国指定史跡となっていて、その隣にこの記念館が立っています。
建物の外観はオランダ・ライデン市のシーボルト旧宅を、玄関はシーボルトの祖父カール・カスパル宅をイメージしたものだそうです。
祖父のカール・カスパール・フォン・シーボルトは「ドイツ近代 外科学の父」と呼ばれ、外科学の近代化に大きな足跡を残した人物だそうです。
シーボルトは祖父の実施した大学での教育改革のおかげで、当時最先端の教育を受けることができたといいます。
こちらのシーボルト記念館、入館料、なんと100円!
もっともっと多くの人に訪れてほしい博物館です。
シーボルトの生い立ち
医家名門家のハイブリッド!
シーボルトは、 1796年2月17日にドイツのヴュルツブルクという町で、医学者の家計を持つ家に生まれました。
父はヴォルツブルグの大学の医学部教授。
シーボルトが生まれた時、祖父も叔父2人も医学部教授を務めていたという医家の名門中の名門でした。
そんな名門家に生まれたシーボルトですが、幼い頃には経済的に恵まれない生活を送ったと言われています。
困窮の原因は父の死。2歳の時に父を肺結核で失っています。
ただ祖父や父の人脈から、多くの学問上の支援者を得られたようで、シーボルトも一族の伝統に従ってヴュルツブルク大学医学部に入学します。
父の同僚・デリンガー氏の大きな影響!
シーボルトを支援した父の同僚の中に、イグナツ・デリンガーという比較解剖学の教授がいます。
医学部に入学したシーボルトは、このデリンガーの研究所を兼ねた住居に寄宿し、当時の最先端の研究施設や文献を自由に利用することができたとのこと。
後にシーボルトが日本人に教えた顕微鏡による観察も、この研究施設での経験がもとになっているそうです。
こうしてシーボルトは医学をはじめ動物学・植物学・民族学などを学んでいきます。
デリンガーの影響は医学の分野にとどまりません。
当時のドイツでは「実証に基づく科学的な研究」が大きな勢力になりつつありました。
デリンガーもまた観察や実験に基づく科学の最先端をゆく研究者でした。
そんな流れの中、ヨーロッパの研究者の視線は、未開の地である中南米、アジア、アフリカに向けられてきます。
シーボルトの目も海外へと向けられて行ったと考えられているそうです。
とは言っても、シーボルトの興味がドイツ時代から日本にあったわけではなさそうです。
最初の興味はインドネシアやブラジル!
当初、シーボルトの興味はインドネシアやブラジルに向けられていました。
そこにチャンスが訪れます。
1821年、当時オランダの植民地だったジャワ島でコレラが大流行します。
ジャワ島現地では医師が不足していて、オランダ政府はこれを補うために派遣する若手医師の募集を行っていました。
オランダ陸軍軍医総督を務めていたヨーゼフ・ハールバウアーという医師がたまたまヴォルツブルグ大学の卒業生だったため、ヴォルツブルグ大学で10名余りの若手石を募集したのです。
これに応募したシーボルトは現在のジャワ島・オランダ領東インドに派遣されることになります。
当初は現地で一般病院に勤めながら、インドネシアの動植物の研究をするつもりでいました。
が、シーボルト一族の1人であったハールバウアーが特別の計らいをして、シーボルトはオランダ領東インド陸軍の軍医少佐に任命され、破格の待遇でインドネシアに渡ったようです。
シーボルトに運命の白羽の矢!出島商館付きの医師に!
インドネシアに渡ると、またしてもチャンスが訪れます。
当時、交代の時期を迎えていた長崎の出島にある商館付きの医師の後任として、シーボルトに白羽の矢が立ったのです。
オランダ領東インド政府としても日本への関心が高まっていました。
オランダは、ナポレオン戦争で一度は消滅した国家を、アジアでの貿易で再建することが急務でした。
そのために情報の少ない日本について総合的に調査する必要に迫られていました。
医療のみならず、博物学に精通したシーボルトはまさに適任の人物!
シーボルト自身にとっても、当時ヨーロッパではほとんど情報がない日本に関する調査研究は、学問的な名声を掴むまたとないチャンスでした。
こうして1823年6月、シーボルトは日本に旅立ちます。つづく
まとめ
もう何回来たかわからなくなるほど大好きな長崎。
そんな長崎でまだ行ったことのない場所がありました。
シーボルト記念館です。そこで知る驚きの史実の数々。
本当に行ってよかったと心から思える場所、必見です。