解説をひとりじめの親切に感謝!石川県立能楽堂
道路の向こうのポスターに導かれ能楽堂へ
金沢ぶらり散歩ひとり旅はまだ続きます。
雨の2日目、天候的には恵まれませんでしたが、文化的経験という意味では最高に恵まれた1日でした。
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その県立美術館のある「兼六園周辺文化の森」はまさに文化の宝庫。
金沢の文化の深さと幅広さを思い知ることになります。
県立美術館の見学を終え、以前来た時に気になっていたレンガ造りの建物に行ってみようと思って歩き出しました。
ふと道路の向こう側を見ると何やらポスターが貼ってある掲示板がありました。
この日はそのままにしてしまったのですが、気になって、翌日また訪れて道路を渡って見てみることにしました。
金沢能楽会のポスターでした。
その後ろに建つ建物が石川県立能楽堂だったのです。
面白そうだったので中を覗いてみることにしました。
なんと!私のためだけに解説してくださいました!
受付で、見学されますか?と聞かれ、はいと答えると、なんと私1人のためだけに若い女性の方が案内してくださいました。
能楽堂に来るのは久しぶりです。
若い頃、東京の国立能楽堂にはよく通っていました。
正直なところ、能楽の中身よりは心地よい謡を聴きながら居眠りするのがとても気持ち良かったのを覚えています。
そしてそれがとてもスッキリするのです。
人の声の響きという自然の音の仕業なのではないかと思っています。
そんな話をしたら、その能楽堂の方も賛同してくださいました。
素敵な能楽堂で素敵な解説をひとりじめ。
なんという贅沢!
石川県立能楽堂はこちら:https://noh-theater.jp
金沢と能楽
加賀藩の能の繁栄は、桃山時代の藩祖前田利家に端を発します。
利家は「金春流」と「観世流」の大夫からけいこを受け、また宝生大夫を陣中に随伴するなど深く能に傾倒したそうです。
五代藩主綱紀は、宝生太夫将監友春に深く学び、金春流の竹田権兵衛以外の役者に宝生流への改流を命じました。
加賀藩では、能を愛好する藩主が続き幕末まで能役者を手厚く保護しました。その一方で、細工所の職人たちにも能楽の一部を兼芸させ、教養を高めさせると同時に能の人材として育成したとのこと。
また、領民たちにも奨励したので、世に「加賀宝生」といわれるほどの能楽の盛んな土地がらとなり、「空から謡が降って来る」とまで言われるようになったそうです。
石川県立能楽堂とは
石川県立能楽堂は、能楽文化の保存・継承及び振興の拠点として、昭和47年全国初の独立した公立能楽堂として開館。
幕藩体制の崩壊によって一時衰退した石川県の能楽は、初代佐野吉之助師によって復興されました。
この能舞台は、二代目佐野吉之助師が昭和7年に建てた金沢能楽堂の本舞台を石川県が譲り受け現在地に移築したものだそうです。
京都にある西本願寺の北舞台(国宝)を模した舞台は、入母屋造りの破風(はふ)のついた檜皮葺(ひわだぶき)屋根(総檜造り)。
長い歳月を経て、何とも言えない落ち着いた色艶と風格を呈しています。
舞台について
揚幕
舞台の左奥、色鮮やかなカーテンのような膜を揚幕といいます。
登場人物や囃子方が出入りに使います。
橋掛かり
揚幕から舞台までの廊下のような橋を橋掛かりと言います。
演者が出入りする通路で、重要な演技空間になっています。
その前にある木の大きさが違い、観客から見て遠近感が感じられるように設計されています。
白洲
舞台を囲む玉石が敷き詰められた空間です。
これはこの舞台がもともと屋外にあった名残だそうです。
屋根
この屋根ももともとは金沢市広坂の屋外にあった舞台を移築してきた名残だそうです。
本舞台
約6メートル四方の舞台は檜造りでタテに張られています。
舞台の下には甕が設置してあり、音響効果を高めているんだそう。
階(きざはし)
舞台正面にかかっている階段のことを階というのだそうです。
寺社奉行などがここを昇り降りして、演能の開始を宣言したりしたとのこと。
鏡板
後ろの松の絵が描かれているのが鏡板です。
シテ柱
舞台を囲む4本の柱のうち、橋掛かりのところの柱をシテ柱と言います。
目付柱(めつけばしら)
観客側左側の柱を目付柱と言います。
ワキ柱
観客側の右側の柱をワキ柱と言います。
笛柱
舞台奥右側の柱を笛柱と言います。
金沢能楽会について
この能楽堂に入ってみるきっかけになったのは金沢能楽会のポスターでした。
金沢能楽会は佐野吉之助師を中心に明治34(1901)年に設立されたのだそうです。
江戸時代、五代藩主前田綱紀が宝生流に改流したのは、五代将軍綱吉が宝生流贔屓だったからとか。
それ以降、加賀藩主は代々宝生流を愛好し、手厚く保護したため、加賀宝生という名が生まれるほど宝生流の盛んな土地となりました。
加賀藩では領民にも謡を奨励し、多くの領民が謡を習い、その裾野は大きく広がりました。
明治維新による幕藩体制の崩壊によって加賀藩の保護を失ってからも、金沢能楽会が加賀宝生を受け継ぎ、100年以上にわたって継承保存と普及振興に努めているのだそうです。
現在、石川県立能楽堂で年11回の定例能を催し、通算回数は1,100回以上に及ぶとか。
こういった能楽堂など多くの文化財が、ハード面だけでなくそれを保護する人材とともに残されていく土台があるところに金沢の文化の深さをまたしても見せつけられた気がします。
まとめ
雨の中、道路の向こうに見えたポスターに導かれ石川県立能楽堂に辿り着きました。
案内の方が私のためだけに解説してくださるという贅沢に感動しました。
建物などのハード面だけでなくそれを受け継いでいく人材とともにこのしていく土台があることに金沢の文化の奥深さを思い知りました。